缶詰めの中の普遍主義者は全員矛盾を抱えている。
彼らは、心の中では普遍主義を脱したいと思っている。
その一方で、言動は普遍主義を強化するようなものになっている。
この缶詰めではメインの講師に加えて、ゲスト講師もしばしば登場する。
講師は、いずれも非普遍主義者。
普遍主義を越えたところにいる。
普遍主義的な思想をもっていると大きな成功は期待できない。
非普遍主義者にはひとつ特徴的な振舞いがある。
講師にも共通することだ。
それは、問答無用の指示はめったに行なわない、ということ。
とにかく早起きしろ、とか、まず信頼を築け、とか、言わない。
言うときは、必ず前提がある。
気持ちよいと感じるなら、とか、コストを下げたいならば、とかいった前提だ。
そういった前提なく、誰でも、とにかくこうしろ、というケースはほとんどない。
ほとんどないのだが、あることはある。
稀にある、問答無用の命令。
そういう命令は、いってみれば、早く普遍主義を捨てろ、だ。
こっち側に来い。
縛られるな。
許せ。
認めろ。
この類いの指示は問答無用の命令になっている。
講師の方々はこういった振舞いを示すのだが、それを受けた参加者の言動は芳しくない。
実際に自分の意思で行動しようとすると、普遍主義が出てくる。
参加者同士で普遍主義を出し合い、お互いに強化している。
彼らは、講師の言に従い、また、講師に近づこうとしている。
普遍主義を脱しようとしている。
それにも関わらず、言ってことやっていることは普遍主義的。
普遍主義を脱したい。
脱するためにがんばる。
だけど、そのがんばり方が普遍主義的。
結果、普遍主義がますます強化される。
多くの人が、そういう矛盾を抱えている。
この矛盾は缶詰めのそもそものコンセプトにも関わってくる。
缶詰めのコンセプトは、講師の生き方を参加者の見本にすること。
非普遍主義者的な生き方を勧める、ということだ。
参加者が抱える矛盾に直結している。
非常に重要。
だから、矛盾を抱えた普遍主義参加者には、どう対応するのがよいか。
これがひとつのテーマとなる。
難しいのは、直接の対話は成功する見込みが低い、といこと。
普遍主義者は、普遍的人物像という強力なフィルターを通してしか世界を見ていない。
対話が成功しにくいのは、話がフィルターで曲げられてしまうからだ。
意図が正確に伝わらないのだ。
普遍主義者にとってみれば、発言者の意図を正確に汲み取るよりも大事なことがある。
普遍的人物像をあてはめる、ということだ。
発言者の意図よりも、普遍的人物像のあてはめの方が優先度が高い。
だから、直接話をしても、なかなか矛盾は解消されない。
心の中では、普遍主義を脱したいと思っている。
だけど、言動は普遍主義万歳。
対話での矛盾解消は期待できない。
これが、缶詰めのいたるところで見られた特徴だ。
この状況、一見、八方ふさがりな感じがしてしまう。
矛盾を解決する方法がなさそうな。
そんな気がしてしまうのだが、実は、まさにこんなときのための手法、というものがある。
彼らの中で矛盾しているのは、意識と無意識だ。
意識と無意識が相互に反発している。
意識では普遍主義。
無意識では脱普遍主義。
そういった構図だ。
この構図は、実は、よくある構図。
とくに缶詰め参加者には馴染みが深い。
対応策も数多く学んでいる。
つまり、解決策は、既に提示されている、ということだ。
矛盾を解消したければ、こうしろ、と。
普遍主義は今の日本では支配的なポジションを保っている。
それが問題になることも多い。
缶詰め参加者は、それに対応するスキルを学んだ。
普遍主義の問題の深さ、解決の困難さに思いを巡らすと、我々に託された期待は予想以上に重いのかもしれない。
<<今日のトレーニング>>
東京でお勉強。
彼らは、心の中では普遍主義を脱したいと思っている。
その一方で、言動は普遍主義を強化するようなものになっている。
この缶詰めではメインの講師に加えて、ゲスト講師もしばしば登場する。
講師は、いずれも非普遍主義者。
普遍主義を越えたところにいる。
普遍主義的な思想をもっていると大きな成功は期待できない。
非普遍主義者にはひとつ特徴的な振舞いがある。
講師にも共通することだ。
それは、問答無用の指示はめったに行なわない、ということ。
とにかく早起きしろ、とか、まず信頼を築け、とか、言わない。
言うときは、必ず前提がある。
気持ちよいと感じるなら、とか、コストを下げたいならば、とかいった前提だ。
そういった前提なく、誰でも、とにかくこうしろ、というケースはほとんどない。
ほとんどないのだが、あることはある。
稀にある、問答無用の命令。
そういう命令は、いってみれば、早く普遍主義を捨てろ、だ。
こっち側に来い。
縛られるな。
許せ。
認めろ。
この類いの指示は問答無用の命令になっている。
講師の方々はこういった振舞いを示すのだが、それを受けた参加者の言動は芳しくない。
実際に自分の意思で行動しようとすると、普遍主義が出てくる。
参加者同士で普遍主義を出し合い、お互いに強化している。
彼らは、講師の言に従い、また、講師に近づこうとしている。
普遍主義を脱しようとしている。
それにも関わらず、言ってことやっていることは普遍主義的。
普遍主義を脱したい。
脱するためにがんばる。
だけど、そのがんばり方が普遍主義的。
結果、普遍主義がますます強化される。
多くの人が、そういう矛盾を抱えている。
この矛盾は缶詰めのそもそものコンセプトにも関わってくる。
缶詰めのコンセプトは、講師の生き方を参加者の見本にすること。
非普遍主義者的な生き方を勧める、ということだ。
参加者が抱える矛盾に直結している。
非常に重要。
だから、矛盾を抱えた普遍主義参加者には、どう対応するのがよいか。
これがひとつのテーマとなる。
難しいのは、直接の対話は成功する見込みが低い、といこと。
普遍主義者は、普遍的人物像という強力なフィルターを通してしか世界を見ていない。
対話が成功しにくいのは、話がフィルターで曲げられてしまうからだ。
意図が正確に伝わらないのだ。
普遍主義者にとってみれば、発言者の意図を正確に汲み取るよりも大事なことがある。
普遍的人物像をあてはめる、ということだ。
発言者の意図よりも、普遍的人物像のあてはめの方が優先度が高い。
だから、直接話をしても、なかなか矛盾は解消されない。
心の中では、普遍主義を脱したいと思っている。
だけど、言動は普遍主義万歳。
対話での矛盾解消は期待できない。
これが、缶詰めのいたるところで見られた特徴だ。
この状況、一見、八方ふさがりな感じがしてしまう。
矛盾を解決する方法がなさそうな。
そんな気がしてしまうのだが、実は、まさにこんなときのための手法、というものがある。
彼らの中で矛盾しているのは、意識と無意識だ。
意識と無意識が相互に反発している。
意識では普遍主義。
無意識では脱普遍主義。
そういった構図だ。
この構図は、実は、よくある構図。
とくに缶詰め参加者には馴染みが深い。
対応策も数多く学んでいる。
つまり、解決策は、既に提示されている、ということだ。
矛盾を解消したければ、こうしろ、と。
普遍主義は今の日本では支配的なポジションを保っている。
それが問題になることも多い。
缶詰め参加者は、それに対応するスキルを学んだ。
普遍主義の問題の深さ、解決の困難さに思いを巡らすと、我々に託された期待は予想以上に重いのかもしれない。
<<今日のトレーニング>>
東京でお勉強。
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