2009年10月アーカイブ

空席を埋めるか

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電車に乗ったとき、席が空いていても立っている人がいる。
そういう人をみつけたら、何を考えているのが予想してみるとおもしろい。
どういう理由で立っているか。

例えば、こういう理由かもしれない。

その場から席まで動きたくない。
ドアの側が好き。
席の横の人が何かイヤ。
おしゃべりがうるさい。
臭いがしそう。
逆にとなりの人に気を遣うのがイヤ。
荷物多いし。
他にも立っている人がいる。
いつも立つように躾られている。
むしろ立つ方がラク。

などなど・・・。

一瞬でどれくらい思いつけるか。
できるだけ多く思いつけるようになると便利だ。

別に電車の席に限る必要はない。
いろんなシチュエーションで、人の行動を見ながら考えていることを予想するとよい。


これを繰り返していると、人の思いを察することができるようになってくる。
他人のだけでなく、自分のでも。
自分自身の真意を探ることもできるようになってくる、ということだ。


人間の行動は、自身でも理由を説明できない場合は多い。
説明できた、と思っても、それが思い込みの場合も多い。
だから、自分の行動をみて、なぜそういう行動を取ったのか、を考えてみるとよい。

理由も分からずにやりたいことが出てきた場合でも同じ。
行動の結果や気分に思いを馳せて、理由を探る。


コーヒーではなく紅茶を選んでしまった。
いつも車を使うところを自転車で行った。
いつになく仕事の進みが遅い。
沖縄に行きたくなった。
パンダを触りたくなった。
一人旅したくなった。


こういうことは、日々の生活で数限りなくあるはずだ。
それを、意識的に深く探ってみる。

行動を取った理由や、何かをしたくなった理由。

ひとつだけではなく、沢山。
できるだけ多く。
ひたすら山のように。

このとき、あっているかどうかは問題ではない。
正しいか間違っているか、を考えはじめると、理由を探る妨げになる。
そのためにも、余計なことを考えるスキを与えず、客観的にありえそうな理由を列挙し続けるとよい。

これがどれくらいできるか、というのが、客観的に自分を観察する能力にかかってくる。
自分のことを、どれだけ他人っぽく見られるか。

そういうわけで、冒頭の他人の考え予想ゲームが役に立つわけだ。
人の行動を見て、その理由を推測する。
そして、自分の行動を見て、同じように推測する。

人のふり見て我がふりも見れ、と。


<<今日のトレーニング>>

夜間、晴れ、水500ml、BCAA前後各5g、マサイ。

距離: 9.0km
時間: 61min

止滅の先には真の自分が

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ヨガスートラの続き。

前回、読んだところでは、心のはたらきを止滅しましょう、ということだった。
続きには、こういうようなことが書いてある。

心のはたらきを止滅すれば、観察者は真の自分となります。

観察者、というのは、自分自身を見ている意識のこと。
人はしばしば、日常の中で自分自身に問いを発する。

自分は今、どういう状態なのか。
今、何をやっているのか。
今、何を感じているのか。

そういう問いだ。
この、問いを発したり答えを求めようとする意識が、観察者。
答えを出してくれるのが、真の自分であるといえそうだ。

さらに続いて、このようにある。

心のはたらきがあれば、それが自分となります。

ここでいう、心のはたらきというのは、感情、と置き換えて読んでみると分かりやすいかもしれない。
怒り、焦り、不安、嫉妬など。
そういうモノ。

そういうモノがあると、それが自分になる。
そういうモノを完全に掌握すれば、真の自分になる。


ヨガスートラの目的がサマディである、ということだった。
そして、サマディとは、心のはたらきを止滅することにつながる。

心のはたらきを止滅すると、真の自分になる、とあるので、サマディとは真の自分に達した状態ともいえる。
さらには、ヨガスートラの説くヨガは、真の自分を求めるもの、となるようだ。

真の自分。

深いテーマだ。


<<今日のトレーニング>>

ランニングは休み。

ヨガ: 90min
前回は、相談されたらどうすればよいか、に触れてみた。
どうすればよいか、というよりは、どうしてはいけないか、といえるかもしれない。

これは、大枠でとらえると、コミュニケーションとはどういうものか、というような話だ。
コミュニケーションというテーマで、同じやりとりを別の観点から見てみる。

まずは、前回ブログにアップしたやりとりを再掲。
こんなやりとりだった。

ブロガーA
ボタンが記事より上にあるね。
記事を読むより先にボタンを押すことを要求するのはいかがなものかと思う。
まずは与えるのが先決ではないかな。

ブロガーB
これは要望があってそうしたのだ。
ウチのブログにはケータイユーザーが多い。
記事の後にボタンがあっては、ケータイではアクセスしづらい。
記事は読むヒマがなくても応援だけでもしたい、と言われたのでボタンは上の方にした。


注意すべき点は、Aの話し方。

よく見てみれば、感想を言っているだけだ。
Bに、あーしろ、こーしろ、と言っているわけではない。
実際に見たこと、自分が思ったこと、を述べているに過ぎない。

それなのに。

Bには、スンナリ受け取られなかった。
あーしろ、こーしろ、というように聞こえた。
なにがしか、複雑な気分になってしまった。


Aからしてみれば、こう言いたくなるかもしれない。

それは、アンタが勝手にそう捉えただけでしょ。
私は何も押し付けようとしたりしてない。
気分を害したのであれば、それはアンタの問題だ。

そしたら、Bの心情としては、こうなりそうだ。

言葉だけとってみれば、確かにその通りだ。
だけど、私は何かしら逆らい難いものを感じた。
それがきっかけで、いい気分しなかったのは事実だ。


どうやら、ふたりのやりとりで、どこか噛み合っていない部分がありそうだ。
それはどこか。

これを明らかにするにあたって、バートランド・ラッセルの論理階型という概念が役に立つ。
この概念を大雑把に説明してしまうと、こういうことだ。

文章でも発言でも、あらゆるメッセージには3つのレベルがある。

  1. 言葉の論理。文字通り、言葉通りの言語的な意味が示すもの。
  2. 場の論理。雰囲気、心の込もり具合、態度、身振り手振りなど、非言語的な意味が示すもの。
  3. 関係性の論理。友人、家族、師弟、上司部下といった関係性が影響してくるもの。
これらのレベルは、どんなメッセージにも常に付き纏う。

例えば、「バカ」という発言にしても、それだけでは何を意味するかは分からない。

「バカ」という発言の文字通りの意味は、侮辱であり、見下している、ということになるだろう。
つまり、辞書に載っていそうな意味だ。

しかしながら、必ずしもこの発言が侮辱ではないことは、我々はよく知っている。

仮に、仲のよい友人同士が、笑いながらふざけて「バーカ」と言った場合はどうか。
これは侮辱にはならない。
逆に、場が楽しくなったり盛り上がったりする。
何の問題も起こらない。

一方、嫌いな相手に、何か大事な物を奪われた上に「バーカ」と言われた場合。
問題になる。
場合によっては血が流れたりする。

論理階型でいうと、言葉の論理ではどちらも同じだ。
しかしながら、より上のレベルでの事情が違う。

始めの例では、場は和んでいるし、関係性は友人だ。
後の方は、場は敵対的なものになっているし、関係性は嫌いな相手。


このようなことは日常的に起こっている。

言葉の論理だけでは、真意は図れない、ということが。
場や関係性があってはじめて、メッセージというものは成り立つ、ということだ。


これを踏まえて、前述のブロガーたちのやりとりに戻ってみる。
論理階型を念頭に置いて見直してみると、なぜ噛み合っていないかが分かってくる。

AがBにメッセージを伝えたときに、論理階型がどうなっていたか。
言葉の論理は?
場の論理は?
関係性の論理は?

これらをみてみれば、何が起こっていたか分かるだろう。


ということで。

どんなときでも、メッセージには3つの論理階型がある。
全てが合わさって、ひとつのメッセージになる。

言葉の論理だけをとりだしたところで、双方向のコミュニケーションにはならない。
とくにネット上だと、言葉の論理だけに目がいってしまいがち。

気を付けたいところだ。


<<今日のトレーニング>>

夜間、晴れ、水500ml、BCAA前後各5g、マサイ。

距離: 8.0km
時間: 58min

答えもやり方も教えず

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人に相談される、とはどういうことか。
どのように返事するのがよいか。

何か問題が起こった。
誰かが、それについて相談してきた。

その時の対応は、どうすればよいか。

答えを与えるのか。
やり方を教えるのか。

実は、どちらもよろしくない。

どちらを選んでも、相談しに来た人のためにならない。
相談しに来た人のためにならなければ、相談された人のためにもならない。
つまり、誰のためにもならない。


なぜか。

答えも、やり方も、相談された人の中にあるものだからだ。

相談されると、つい、自分の中にあるもの出したくなる。
自分がもっている答えらしきものを与えようとする。

自分の経験を参考にして教えようとする。
自分の知識をもとにして答えようとする。
自分が通った道を通らせようとする。

問題なのは、これらは全部、相談された人の中にあるモノでしかない、ということ。

そう。
自分の中にしかない。
どんなモノであっても。

それが相手の中にもある、という前提で話をしてしまうのはよくあること。
運がよくて何も伝わらない。
運が悪ければ間違って受けとられる。

それを別の人にあてはめることは、求められていない。
相手の世界の中にあるモノでしか、何かを伝えることはできない。


こんなやりとりがあった。
ブロガー同士のやりとりだ。

ブログランキングのボタン配置について。
このボタンは、大勢の人が押せば押すほど人気がある、ということになるシロモノ。
大抵のブロガーは押してもらいたがる。

そのボタンについてのやりとりだ。


ブロガーA
ボタンが記事より上にあるね。
記事を読むより先にボタンを押すことを要求するのはいかがなものかと思う。
まずは与えるのが先決ではないかな。

ブロガーB
これは要望があってそうしたのだ。
ウチのブログにはケータイユーザーが多い。
記事の後にボタンがあっては、ケータイではアクセスしづらい。
記事は読むヒマがなくても応援だけでもしたい、と言われたのでボタンは上の方にした。


どちらも間違ったことは言っていない。
Aの、記事を読んでもらってからボタンを押すかどうかを任せる、という態度は立派なものだ。
Bの、要望があったからそれに応えるためにボタンを上にした、というのも納得できる。

どちらもよいことをやっている。
だけど、このやりとりで、ふたりの関係が緊張してしまった。

どうして、ふたりともよいことをやっているのにそういうことになるのか。

ポイントは、Aが自分の立場でしか見えない範囲で、Bに意見してしまった、という点だ。
それも、現状のBを否定するようなやり方で。

Aからすれば、Bのためを思って出した意見ではあるが、受けたBはいい気分ではない。
Bのためを思って言った、ということがB自身にも分かっているので、なおさら複雑な気分になる。


人を手伝おう、助けようとするのはすばらしい。
そういうことは、どんどんやっていけばよい。

しかしながら、その方法は考える必要がある。
自分が何を言っているのか、自分が誰に言っているのか。

これが見えていない発言は、誰のためにもならないし、手伝いにも助けにもならない。

答えを与えるでもなく。
やり方を教えるでもなく。

本当に相手のためを思ったアドバイスをするなら、もっと深くに突っ込んだ姿勢が必要だ。


ちなみに、ウチはブログランキングには参加していない。
いろいろ理由があるのだが、それはまたの機会にでも。


<<今日のトレーニング>>

夜間、晴れ、水500ml、BCAA前後各5g、トレランシューズ。

距離: 10.0km
時間: 64min

突然出てきた車

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車に轢かれかけた。

今日も、トレーニングで外を走っていた。
最後の最後、横断歩道で信号が青になった。
青なのを確認して、渡りながらGPSを確認しようとした。

その時、車が前から右折して来た。
幸い、ぎりぎりの所でブレーキを踏んでくれたので接触はしなかった。

ほんとに、10cmくらいの差で。
ほんの少しでも、ブレーキが遅かったら衝突していた。
ほんの少し、車道側を渡っていてもそうなった。

文字通り、轢かれかけだ。


そんなわけで、轢かれかけたわけだが、このとき何が起こったのか。

実は、距離10cmに接近するまで、車の存在に全く気付いていなかった。
本当に全く。

突然、手が届く距離にボンネットが現れたかのようだった。
何もない空間から突然。
ポンっと。

車のくせに。


普段だったら、こんなことになることはまずない。
自分の周り10cmまで、何かが接近してくるまで気付かないとは。

しかも車が来たのは斜め前からだ。
視界に入らなかったハズはない。

見えていたはずなのに認識しなかったのだ。
そこに車がいる、ということを。


普段だったら気付かないとは思えない。
ここ数年、こんな経験はない。

ということは、今回轢かれかけたのは、普段とは違う状況だった、といえそうだ。
そこで、現場のシーンを再現してみることにする。

現場のシーン。

雨だった。
エンジン音が聞こえなかった。
夜だった。
車が黒かった。
信号が青だった。
GPSを確認しようとした。
GPSがポンチョの下だった。
ゴールまであと少しだった。
1時間走った後だった。


こんなところか。

大雑把にまとめると、ふたつの要素に大別できそうだ。
環境と心、のふたつ。

環境というのは、雨の音でエンジン音が聞こえにくかった、とか、夜で暗かったから黒い車体が見えにくかった、というところ。
心というのは、GPSやポンチョに気をとられた、とか、あと少しでゴールなので緊張感が下がっていた、とか。


これらを踏まえて、再発を防ぐにはどうすればよいか。
環境を変えるか、心を変えるか、あるいはその両方か。

環境を変える、というのは、雨の日や暗い夜には気を付けるとか、走らない、とか。
そういうことが考えられる。

考えられるけど、これは後になってからだからこそ考えられるようにも思える。
今日のような体験がなければ、雨や夜だと、近付いてくる車に気付かない可能性があるから危ない、などとは思わないだろう。
実際、気付かないだろうとは思わなかったわけだし。

それでも事前にこういうことを考える、ということは、あらゆる可能性を考えることになり得る。
車道の近くは避けるべきか。
曲り角はどうなのか。
車ではなく、人とか動物とかは。

考えはじめると、危険性がない場合というのはありえない。
つまり、どんな場合でも走るな、というような結論に至る。

環境を変えるのには、こういう側面がある。


では、心を変える方はどうか。

こちらの方が現実的に思える。
ものすごく簡単に言ってしまえば油断しない、ということ。
常に心を安定させておくこと、ということではないか。

ヨガの目的も、そのあたりにあるように思える。


<<今日のトレーニング>>

夜間、雨、水500ml、BCAA前後各5g、トレランシューズ。

距離: 9.0km
時間: 67min

銃で撃たれたら死ぬか

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前回、サマディが何なのかよく分からない、というような話をした。

サマディがよく分からないのはその通りだが、心や精神についての話らしい、ということは分かる。
ヨガスートラの冒頭でも、心のはたらきをどーのこーの、と言っている。

どうやら、ヨガスートラでは心を重視しているらしい。

心を重視、ということで、おもしろいエピソードがあるので、今回はそれについて。


とある国の軍が、未開の地のゲリラを掃討しようとしていた。
ジャングルを巡回して、ゲリラを探す。
みつけたら片付ける。
そういうミッションだ。

ジャングル巡回中、軍人のひとりがたまたま他の仲間と離れてしまった。
そこをゲリラに襲われた。
ゲリラの方もひとりだ。

軍人は、ゲリラの存在に気付くと、すぐに銃を抜いて、発砲。
6発の銃弾は、すべて命中した。

だが、ゲリラは倒れない。
銃弾を受けたにも関わらず、軍人に迫る。
持っていた剣で首を薙ぎ払った。

首を切られて軍人は倒れた。
直後に銃弾を受けたゲリラも倒れた。


ゲリラは、なぜ、致命的なダメージを受けながら、突進し続けることができたのか。

ここが心のはたらきのミソだ。


当時のゲリラにとって、武器として脅威があるものは剣や弓矢だった。
これらによってダメージを受けると死ぬかもしれない、という認識があった。

剣で切られると、危い。
矢が刺さると、痛い。

そういう認識があった。

一方で、銃という武器は未知の武器。
死の脅威がある武器とは認識されていなかった。

銃で撃たれると死ぬ、とゲリラは思っていなかった。
銃は怖れるべき武器ではなかったのだ。

銃の認識がそういうものであったからこそ、ゲリラは即死しなかった。


逆に、銃で撃たれると死ぬ、と思っている人にとってみれば反対のことが起こりうる。
肉体的に致命傷でなくても死んでしまうことがある、ということだ。


アメリカでは22口径の銃は、攻撃用ではなく遊び用だという認識がある。
殺傷能力は低い、という認識だ。

彼らは撃たれたとしても、弾が22口径だと知れば多少安心する。
22口径であれば、助かる、と思う。
そして、肉体的に致命的でなければ、実際に助かる。

それに対し、日本では銃に関して詳しく把握している人は少ない。
口径のことなど、よくわからない。
銃であれば、どれも危ない、撃たれれば死ぬ、と思い込んでいる人が多い。
こういう人が銃弾を受けると、どうなるか。

肉体的に命に別状がないダメージだったとしても、死んでしまう。
死ぬ、と思い込んでしまったら本当に死ぬ。
精神的なショックで死んでしまうのだ。


思い込み次第、心のありかた次第で、ここまで違いが出る。

致命傷でもしばらく生きている人がいる。
致命傷ではないのに死んでしまう人がいる。


ヨガスートラが心を重視する、というのも納得だ。
心のありかたによっては、死ななくてもよい場合でも死んでしまう場合があるから。


<<今日のトレーニング>>

お休み。
昨日から東京出張中。
ヨガスートラには、何が書かれているのかというと・・・

最終的にはサマディという境地を目指しましょう、とある。

サマディ・・・?

サマディとは何ぞや?

これが、心の働きが止滅された状態。
ヨガスートラの冒頭に書いてある状態だ。

それならば、心の働きが止滅された状態とは?

それは、ヨガスートラに書いてある。
書いてある、というか、読み解けば理解できるかもしれない。

サマディを理解し、それを目指す。
これが、ヨガスートラの解くヨガのありかただ。

ヨガスートラは、サマディ達成マニュアルだ。


ヨガスートラが何かは、分かった。

なんだけど、ここでひとつ悩ましい事態が発生。

ヨガスートラの目指すところはサマディだ。
とすると、これを読む目的はサマディの理解と達成ということになる。

なのだけど、サマディが何かはよくわからない。
読めば分かるらしいが。

ヨガスートラを読む目的がサマディで、サマディがよく分からない。

つまり、ヨガスートラを読む目的がよく分からない。

目的がよく分からない。


なのに、なぜ読むのか。

ここがキモだ。


目的が分からない、と言って読まない人は多い。
一見すると、妥当な理由だ。

よく分からない、というのが、何かをやらない理由になっている。

よく分からない。
だから、やらない。


この傾向は、世間のいたるところで見られるパターンではありませんか。

数学が何の役に立つのかよく分からない。
片付けが何の役に立つのかよく分からない。
浜名湖一周が何の役に立つのかよく分からない。
サハラマラソンが何の役に立つのかよく分からない。
人生について考えることが何の役に立つのかよく分からない。

だから、やらない。

実際、こういう物事は多い。
やってみないと、何の役に立つのか分からないものが。
読んでみないと、役に立つかどうか分からない本が。

そして、後になって役に立ったと分かる場合も多い。


かつて、読み書きを学んだときは、何の役に立つか分からなかった。
今では、非常に役に立っている、ということが分かっている。

世界には、文字が読めない人も少なからずいる。
そういう人たちの生活を想像してみると、読み書きのありがたみが分かってくる。


分からない、という理由で何かを避けてはいないだろうか。
それは、今、価値が分からないだけだ。
価値がない、というのとは違う。

この違いは非常に大きい。
読めるか読めないかぐらいに。


<<今日のトレーニング>>

お休み。

心のはたらきを止滅する

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ヨガ教室でヨガティーチャーに、どんなことやりたいか、と聞かれた。

聞かれたので、ヨガスートラを読みたい、と答えた。
ヨガスートラ、というのはヨガの経典のようなもの。

ヨガの歴史上、この経典を前後でヨガワールドは大きく変わった、と言われている。
重要な古典。
キリスト教でいうところのバイブル、イスラム教でいうコーランのようなモノだ。

真のヨガラーを目指すには、避けて通れない道だ。


ティーチャーはこのみょうちくりんな要望に応えてくれて、今後ヨガ教室の冒頭で少しずつヨガスートラを解釈していきましょう、という流れになった。
ありがたいことでございます。

今日は早速、ヨガスートラの冒頭を解説してくれた。

まず、一番最初に書かれていることは、これ。

これからヨガの解説をはじめます。

うん。
それはそうだ。

自他共に納得してから先に進みましょうね、ということか。
この本はヨガの解説をする本だから、間違って手にしてしまった人は棚に戻しておいてね、と。


以前、キリンのぬいぐるみに、「キリン」と書いてあるのを見たことがある。
それを思い出した。
これはキリンですよ。
間違ってキリンに用がない人が手に取ったのであれば、棚に戻しましょう、と言いたかったのか。

そんなわけで、スムーズなエントリーを促す親切な文言から始まった。

次に書いてあるのが、いきなりヨガの核心に迫る一文。

ヨガとは、心のはたらきを止滅することです。

止滅だそうな。

そう。
シメツ。

心のはたらきを止滅する、とはどういうことか。
さっぱり分からない、と言いたくなりそうだ。

この段階では、分からなくて当然。
まだ冒頭の2行目。

止滅とは何か。
止滅するとどうなるのか。
そもそも心とは何か。

冒頭で意味不明な文章を持ってきて、以下で解説しつつナゾを解いていこう、というのがヨガ・スートラの流れだ。

今日のヨガスートラ読解はここまで。
核心に迫るナゾが出たところで、終了。

週に一回このペースでやっていけば、1年後くらいにはナゾが解けている。

・・・かもしれない。


こちら、ヨガティーチャーのブログ。
sari blog

ヨガスートラを読みたい、という珍妙な要望にも笑顔で応えてくれるナイスティーチャーだ。


<<今日のトレーニング>>

ジョギングはお休み。

ヨガ: 90min

今後の方向を

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最近、多方面から、難しいという指摘を受けている。
このブログが。

パッと聞いただけで理解できるほど簡単なことを言っているつもりはないけど、さすがに指摘が多い。
なのでこの調子でいくのもどうかな、と思いはじめてきた。

難しい上に、一回の投稿が長い、というのもあるかもしれない。
文字ばっかり、ずら~っと並んでいると、それだけで、拒否反応が出ることもある。


そういうわけで、今後、どういうスタイルでいこうか模索中。

言いたい内容はそのままで、でも分かりやすくて簡潔で、それでいて興味をそそるものが理想かな。
そういうところを目指してみたい。


<<今日のトレーニング>>

夕方、晴れ、水500ml、BCAA前後各5g、マサイ。

距離: 9.0km
時間: 62min

本を大量に読むと

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あるビジネスマンは、本を沢山読むことを推奨している。
読み方も、量に焦点を置く。

量に焦点を置いている場合、線をひきながら、とか、メモをとりながら、ということはやらない。
ただ、読む。
内容を覚えようとか、応用を考えながら読もうとかしない。


本というものは、世界の中にある知識や経験のごく一部が、特定の著者によって表現されている。
一冊の本から得られるのは、そういった知識・経験のごく一部が、ごく一部の視点によって切り出されたもの。
ごく一部のなかのそのまたごく一部。
世の中の知のごくごく一部だ。

名著と呼ばれるような書籍であったとしても、この事実は変わらない。
一冊の本から得られるものは、そういうものだ。


そういうものだとしてみると、ひたすら量を読め、という主張も納得できる。

個々の本に囚われていては、いつまでたってもごくごく一部しか見えないままだ。
一方、大量の本を読んでいると、本と本とのつながりが見えてくる。

それぞれの本は、お互いに無関係に存在しているわけではない。
主張の背後にあるものが繋がっていたり、同じことを違う抽象度で表現していたりする。

そういうつながりが見えてくると、ひとつの本から得られるものも違ってくる。
ひとつの本が表現しているごくごく一部を通して、その背後にある何か、に触れることができるようになる。

個々の本が表現しているものを、小さな物語と呼ぶことにする。
背後にある何かは、大きな物語だ。


大きな物語に触れられるレベルに至るには、読書量があるポイントを越えている必要がある。
そのポイントは、はっきりしたものではないが、そこを越えると読書の意味が変わってくる。

以前は、個々の本における個々の主張に注目していただろう。
つまり小さな物語を理解するだけ、という。
ポイントを越えていると、小さな物語と同時に、大きな物語にも注目するようになる。

今読んでいる本は、大きな物語の中ではどういう位置づけにあるのだろう、というようなことを考えはじめる。


例えば、ガンダム。

ガンダムのアニメには数多くのシリーズがある。
個々のシリーズが表現しているのは、小さな物語だ。
小さな物語がいくつも存在していて、大きな物語の一部分を表に出している。

ここで、シリーズを全部制覇して、小さな物語を全部見終えたら、大きな物語を理解した、という気分になるかもしれない。
しかし、そうはならない。

大きな物語を全て語り尽くすことはできないからだ。

シリーズの中で、多数のキャラが出てくるが、それら一人ひとりに出生から育ち、思想や性格がある。
多数のメカが出てくるが、それらひとつひとつにも設計図から製造法、素材や操縦方法がある。
設計図ひとつを取ってみても、誰が書いたのか、どういう過程で書いたのか、どれくらいの時間をかけて書いたのか、と。
掘り下げていくと果てしない。

そういう果てしない世界がガンダムの世界であり、大きな物語だ。

ここでは、公式の設定がなされているかどうかは関係ない。
鑑賞者の頭の中でどのようにイメージされるか、が問題だ。

その意味で、鑑賞者が思い至る全ての背景が、大きな物語を構成することになる。


ガンダムの場合はまだ分かりやすいが、このような事情はあらゆる物事にもあてはまる。


今、本棚を見渡したら、マインド・マップの本が目についた。

この本も、小さな物語だ。
では、これとつながりの強そうな本には、どういうものがあるだろうか。

フォトリーディング。
フロー体験。
思考は現実化する。
人間この信じやすきもの。
影響力の武器。
誘惑される意思。
ロジカル・シンキング。

こんなところか。
これらが同じところから出てきた小さな物語だとすると、大きな物語が想像できるようになってこないだろうか。

そういう視点が身に付いてくると、本を沢山読む、という読み方が効果的になってくる。
世界を理解する速度が段違いに速くなってくる。

オススメ。


<<今日のトレーニング>>

夜間、晴れ、水500ml、BCAA前後各5g、マサイ。

距離: 8.1km
時間: 61min

教師不在で言語マスター

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大人になってから外国語を習得することは実に骨の折れる。
何年勉強しても、なかなかモノにならない。

とくに、発音は絶望的。
ネイティブ並の発音を身に付けるのは100m先から針の穴にロープを通すくらい難しい。


それなのに。

ネイティブの人達は全員ペラペラ。
母語を話せない人はいない。

日本で生まれ育って、日本語を話せない人はいない。
アメリカで生まれ育って、英語を話せない人はいない。
フランスで、スペインで、エジプトで、中国で・・・

どこの国でも、しかるべき環境で育てば母語を滑らかに話せるようになる。
地球上のどんな言語であろうと。

外国語をなかなかモノにできない大人の視点から見ると、子供の母語習得能力は本当に不思議。
子供はどのようにして母語を学習しているのだろうか。

子供が言葉を覚える過程に注目してみたい。


子供は、親や身近な人達の会話から勝手に学習している。

まずは、身の回りに溢れる日本語をどんどん吸収して、サンプルを集める。
はじめは吸収するだけ。

1年かそこら、吸収するだけしたら、今度は発信し始める。
最初は単語ひとつのごく簡単なもの。
次第に単語ふたつを組み合わせはじめる。
やがて加速度的に表現が複雑になり、3年もすれば大人との会話に支障がなくなる。

おもしろいのは、発信し始めてからマスターするまでの間の学習方法だ。
1歳から3歳あたりの期間。

この期間、子供は何をするか。

手当たり次第、言葉を口にしまくるのだ。

とにかく喋る。
親がいれば、話しかける。
いなくても、とりあえず口は動かす。

やりたいこと、ほしいもの、単に見たもの、聞いたもの。
何でも喋る。

こうやって、アウトプットを盛んに行なう。
アウトプットを盛んに行なって、どうなるか実験しているのだ。
周りの反応をみて、より正しい話し方ができるように調整していく。

ここがおもしろいところ。

通常、反応というものは明確な形では得られない。
誰かに話しかけたときでも、話し方の間違いを指摘されることは、まずない。
間違った単語の使い方、間違った発音をしていても、誰もそのことを教えてくれない。

誰にも間違いを指摘されないのに、おかしな話し方は修正されていく。
親からしてみれば、気が付けばまともな話し方になっていた、という感じだ。

また、仮に大人が間違いを指摘しても子供に受け入れられることはない。

実際に、ある言語学者が自分の娘で実験していた。
文法の間違いを指摘したらどうなるか。
その場では指摘された点を修正する。
しかし、直後に平然とその間違いを使う。

子供は、人の指示で言語を修正したりしないし、そもそも指示が出されることはほとんどない。
指示以外の手掛りをもとにして修正を行なっている。

手掛りは、相手の表情かもしれないし、返事の内容かもしれないし、声のトーンかもしれない。
そういうところからフィードバックを受けている。

このフィードバックを蓄積させて、自分の話し方を調整する。
それを繰り返して、話し方が徐々に洗練されていくわけだ。


子供の母語学習は、このようにして行なわれる。
誰からも教えられない。
誰からも間違いを指摘されない。

学習環境は、こういうところ。
親切に教えてくれる人がいない、劣悪な環境だ。

この環境でどうやって学習しているか。

まずは、大量のインプット。
次に、大量のアウトプット。
そして、自発的なブラッシュアップ。

こういう流れだ。
子供はこの方法で、直接の教えがない状況の中、3年で言語をマスターする。


子供の母語学習方法、大人の我々にとっても見習うところはありそうだ。

ややもすると、誰かに答えを聞きたくなる。
インプットもアウトプットも十分にせず、フィードバックも誰かの声をあてにしたりする。
ショートカットを求めて、先人だか権威だかの言を鵜呑みにしてしまいがち。

そして、コケる。


こんな態度では、身に付くものも身に付かない。
納得。

何かを習得したければ、子供を見習え、ということか。


<<今日のトレーニング>>

夜間、晴れ、水500ml、BCAA前後各5g、マサイ。

距離: 9.0km
時間: 64min

金槌は武器か

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人はそれぞれ違う。
それぞれ違うのに、ややもするとそのことを忘れがちになってしまう。

相手のイメージを勝手に作り上げて、それと接するかのようにコミュニケーションをとろうとする。

ナントカ大学を出ている人なら、頭がよい人に違いない。
遅刻する人は、周りのことが見えていない人に違いない。
太っている人は、意思の弱い人に違いない。

そういう無意識に持っているイメージを前提にして話してしまう。

ここしばらく、形を変えてこのブログに何度も投稿しているテーマだ。


これまでは、もっぱら対人のネタが多かったが、今日はこの話をモノに対してやってみようと思う。

ではさっそく。


金槌とは何か?

鉄と木でできているもの。
釘を打つもの。
大人が片手で持てるくらいの重さのもの。
などなど。

こういったものが、一般的なイメージだ。
誰に聞いても、金槌といえばイメージすると思われるもの。
普遍的金槌像だ。

注目したいのは普遍的、というところ。
ここに挙げられたイメージにはごっそり抜け落ちている前提がある。

金槌を使う際の、使う人や状況がまるで考慮されていない、という点だ。
使うのは誰か。
使うのはどういう場面か。

こういう観点が、ない。

誰が、どういう状況で、といったコンテキストを無視して、その上で成り立つ性質を並べている。
つまり、普遍的な性質だ。


では、誰が、どういう状況で、などといった観点を踏まえてみるとどうなるか。

てごろだ。
重過ぎる。
役に立たない。

こんなイメージが出てくるかもしれない。
いずれも、金槌とは何か、という問いに答えている。

注意したいのは、どれが正解とかどれが間違い、とかいう問題ではない、という点。
これらのイメージは、誰が、とか、どういう状況で、とかいったコンテキストによるものだからだ。


このように、金槌とは何か、と聞かれるとふたつの側面からイメージが湧いてくる。
普遍的金槌イメージと、コンテキスト依存金槌イメージ。

どちらも金槌のイメージとしては妥当ではある。
それなのに、普通に問いかけられると、大抵は普遍的な方を答えてしまう。
コンテキスト依存の方が答えに出てくることは珍しい。

実際に金槌を見ても、釘を打つもの、としか認識しない場合も多い。
コンテキスト依存でいえば、必ずしも、そのように用途が限られたりはしない。

ガラスを割るのにも使える。
書類が飛ばないように、重しとしても使える。
みっつ用意して、次々と投げ続ける見世物にも使える。
強盗に襲われたときに、武器として手にとることもできる。


金槌はこういうものである、という観点を抜け出すことができれば、様々な用途が見えてくる。
これは金槌に限ったことではない。

テレビだって、対強盗用の武器になる。
分厚い辞書は、高いところの物を取るための踏み台になる。
名刺ですら、何かを切るための刃物になる。


モノに対して普遍的なイメージで接するか。
それとも、コンテキスト依存であらゆる可能性を認めながら接するか。

対人の場合と同様、世界との付き合い方の指針になるのではなかろうか。


<<今日のトレーニング>>

トレーニング再開。
60kmの徒歩だと、回復に約一週間かかるらしい。

夜間、晴れ、水500ml、BCAA5g、マサイ。

距離: 8.0km
時間: 63min

最高のコーヒーと最高のコーヒーたち

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最高のコーヒーとは何か?

これを求めて、多くのコーヒーマンが日夜研究したり調査している。
しているのだが、最高のコーヒーを語る上で、ひとつ重要なポイントがある。

実は、世界で最高の万人が認めるコーヒー、というのは、ない。
誰にでも好まれる最高のコーヒーは、存在しないのだ。

それでも、万人に好まれるものを作ろうとしたら妥協の産物が生まれる。
妥協の産物でも、そこそこのものはできる。

人々も、これが最高だ、と言われれば、そんなものか、と思ってしまう。
これが不幸のモトになっている。


人はそれぞれ、違う味覚を持っている。
違う味覚を持っているのに、ひとつの味で全員の好みに合わせよう、というのは無理なのだ。

だけど、それを求めてしまいたくなる。
誰にでも好まれる、最高のコーヒーがあるのではないか、と思ってしまう。


実際、過去に似たような前提で調査をした食品メーカーがある。

そのメーカーはとある飲み物を開発していた。
最高の飲み物を作ろうとしていた。
その再に、調査していたのは、甘味料の量をどれだけにすればよいか。

8%~12%の間がよい、ということは事前に分かっていた。
8%以下だと、甘さが感じられない。
逆に、12%以上だと、甘すぎる。

ここまで分かっていれば、問題は簡単そうに見える。

それぞれの甘さのサンプルを用意して、人々に試飲してもらい、データを集めればよいではないか。
そうすれば、甘味料の量と反応のよさ、の分布が分かる。

分布にすれば、きっと釣鐘型のカーブを描くだろう。
それを見て、一番人気のあるところを選べばよい。

当時の担当もそう考えて、実際にそういう調査を行なった。

しかし、得られたデータは、てんでバラバラ。
釣鐘型にはなっていない。
何%が人気なのか、サッパリ分からない。

担当者は、それから何年もこの問題に悩まされることになる。

なぜ、この調査で人気のパーセンテージが得られないのか。
調査の仕方が間違っていたのか。
あるいは、人の好みは複雑すぎて、調査自体が無意味なのか。

そういうことを考えながら日々を過ごしていた。
そして、ある日突然ひらめいた。


そもそもの問題は、最初の質問だ。
作ろうとしていたのは何か。

最高の飲み物。

これが間違い。
正解は、これ。

最高の飲み物たち。


全ての人が好む最高の飲み物など、ない。
あるのは、それぞれの人がそれぞれ最高だと思う飲み物たち。

私にとっての最高の飲み物。
あなたにとっての最高の飲み物。
ちはるくんにとっての最高の飲み物。
ピーターさんにとっての最高の飲み物。

どれも同じではない。
各人にとっての、それぞれの最高がある、ということだ。


実際、万人向けに細かく調整されたコーヒーを作ったとしよう。
豆の種類、炒り方、挽き方、入れ方などなど。
誰もが喜ぶと思われる方法を、細かく調べてコーヒーを作る。

これを、テキトーに集めた人たち100人に飲んでもらう。
飲んだ後に、全員に100点満点で点数をつけてもらう。

そうするとどうなったか。
平均60点になった。

同じことを、コーヒーの好みで4つにグループ分けしてテストしたらどうなったか。
平均は78点になった。


60点と78点の差。

この差というのは、震えるほどマズいコーヒーと溜息が出るほどおいしいコーヒーの差なのだ。


食べ物に関して普遍性を求めることは、間違っているだけでなく、害にすらなる。
by ハワード・モスコウィッツ


<<今日のトレーニング>>

休み。

60億の私

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私が思う私。
あなたが思う私。

ふたつの私は違うもの。
近付きはするが、一致はしない。

ひとりの私は、同時に60億の私でもある。


<<今日のトレーニング>>

休憩中。

フタを閉じたらキャベツはどうなるか

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目の前にパソコンがある。

というのはどういうことか考えてみる。


パソコンがある、と認識しているのは自分である。
目で見て、手で触って、認識する。
キーボードで打った文字が表示されるのを確かめて、ここにパソコンがあるのだ、と思う。

こうやって、五感を使って確認しているから、パソコンがあることを認識できる。
認識したから、パソコンがある、と思える。


では、認識しなかったら、そこにパソコンはあるだろうか。

音を消して、目を閉じて、少し離れてみる。

素朴な感覚では、それでもパソコンはあるように思える。
パソコンがなくなった、とは思えない。

実際、目を開けると、やはりそこにパソコンは、ある。

目を閉じる前にも開けた後にも、パソコンはあった。
だから、閉じている間も、そこにあったに違いない。
認識しない間も、パソコンはあったに違いない。

こう思ってしまう。

思ってしまうのだが。

この思いは、正しいのか。
はたして、本当に認識していない間も、パソコンはあったのだろうか。


認識していない間のことは、当然ながら何が起こっているか確認する方法がない。
空白の時間だ。
空白の時間に起こることは、推測することしかできない。
前後の出来事や、それまでの経験などから、思いを巡らすことができるだけ。

パソコンが、目を閉じた直後に消えて、目を開ける直前に現れる、ということが起こっていない、と断言できる根拠はない。
あるのは、推測だけだ。

今だかつて、パソコンが消えたり現れたりするのを見たことがない。
誰かが、パソコンを動かせるほどの時間もない。
空白の時間の前後で、パソコンの位置が変わっているようにも見えない。

こういった、もろもろの根拠らしきものをあてにして、空白時間にもパソコンがそこにあった、と思う。

友人に見ていてもらったり、ビデオで撮影していたりしたとしても、事情は変わらない。
友人やビデオが真実を反映していることを証明することはできないからだ。
友人がウソをついている可能性や、ビデオの映像が合成されている可能性を消すことはできない。

これも、同様に推測することができるだけ。
長い付き合いなので、友人の振舞いからウソかホントか分かる。
映像に不自然な点はないし、そもそも合成したりする時間なんてなかったはずだ。

そういう理由を上げて、実際に起こったことを探ろうとする。


推測することができるだけで、実際に空白時間に何が起こったのかは証明できない。
空白時間にパソコンやら本やらキャベツやらが、本当にそこにあったかどうかは分からない。

分からない。
分かるための方法がない。

分からないなら、分からないままにしておけばよいではないか。
モノが、自分の認識と関係なく存在しているかどうかは、どうでもよい、と。

眠っている間は、仕事部屋にパソコンがあるかどうかはどうでもよい。
外出中は、本棚に本があるかどうかはどうでもよい。
フタが閉まっている間は、冷蔵庫の中にキャベツが入っているかどうかはどうでもよい。

どうでもよくないのは、起きたとき、帰宅したとき、フタを開けたとき。
つまり、認識したときだ。
パソコンや本やキャベツを認識したとき。

認識しているときだけ、モノに対して自分が何らかのアクションを起こせる。


この視点が得られると、日々の生活の中での着眼点が変わってくる。

空白時間にもモノは存在する、という素朴な感性に従っている間は、モノ自体に意識が集中してしまう。
パソコンとは、これこれこういうもの。
本とは。
キャベツとは。

モノが、自分がいようといまいと関係なく世界に存在している、と無意識に信じている。
そうやって信じているモノ自体に目を向けている。


それに対し、モノ自体ではなく、認識の方に注意を向けるようになると、違うところに意識がいくようになる。
それが、モノと自分との関係性だ。
モノ自体をうんぬんするのではなく、モノと自分との関係性に着目するようになる。

私は、パソコンを、これこれこういうものだと捉えている。
私は、本とは、こういうものだと思っている。
私は、キャベツとは、こういうものだと信じている。

モノ自体に焦点が当たっているときとは、捉え方が違う。
自分があってモノがある、モノがあって自分がある、という視点で捉える。
どちらかだけを、独立に扱うようなことはしない。

対象がモノではなくヒトであっても同様だ。

タロウはダメなやつだ。
と、
私は、タロウはダメなやつだと思う。
の違い。


自分に対してもしかり。

私は変態だ。
と、
私は、自分のことを変態だと思う。
のように。


先日、普遍主義と相対主義について書いた。
モノ自体と関係性のあたりを絡めてみてみると、より理解できるようになると思う。

<<今日のトレーニング>>

ランニングはお休み。

ヨガ: 90min

何が一番記憶に残っているか

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これまでの一年間を振り返ってみる。

何が一番記憶に残っているか?


これからの一年間を思い浮かべてみる。

一年後の自分にどんな記憶をプレゼントしたいか?


<<今日のトレーニング>>

足回復中。

浜名湖一周60km徒歩の旅

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体育の日だから、というわけでもないが、浜名湖を一周歩いてきた。

距離にして60.6km、かかった時間は16時間。
うち、休憩を除いて、実際に歩いた時間は14時間。

朝4時半にスタートして、夜20時半にゴール。

暗いうちから歩き始めて、終わったのも暗くなってから。
日の出と日の入りを歩きながら見た、ということに。


hamanako_walking01.jpg
午前4:30。
暗すぎて撮影も困難。
心の目でみるとよい。

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日の出前の東の空。
赤い。

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日の出。
やっと暖かくなってきた。

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日の出直後の湖。
西の方角。
雲が赤い。

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自転車専用道路に突入。

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自転車道の概要。
これを徒歩で行く。
改めてアッパレな企画だ。

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自転車道。
車の心配がないのは、精神的にありがたい。

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岸辺で焚き火。
湖畔では、いろんな人がいろんなことをやっている。
焚き火とか釣りとか散歩とか。
一周ウォーキングとか。

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パブリック休憩所。
ここで朝御飯タイム。
3時間半経過。

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浜名湖パルパル。
観覧車が目立つ。
対岸からでも見える。

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道中の案内看板。
かなり助けられた。
長時間歩いていると、ちょっと迷っただけでも精神的ダメージが大きい。

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地味なトンネル。
実は天下の東名高速。

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トンネルを越えてしばし歩く。
また水辺に出てきた。
赤茶っぽい橋が東名高速。

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雰囲気が田舎っぽくなってきた。
左側の水辺には何かいそうな雰囲気。

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何かいた。
たれパンダのフリをしている魚。

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たれパンダのみならず、野鳥も見られるらしい。

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見られた。
冬ではないけど。

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浜名湖の最奥部、奥浜名湖。
椰子の木が並び、水も青く、実にトロピカル。
東名高速の橋も見える。

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浜名湖サービスエリア。
実は徒歩でも中に入れる。
それもそうか。
高速道路の中にバス停があるのだから。

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サービスエリア近くの湖岸。
写真中央左寄りにはパルパルの観覧車がほんのり。

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ここまで奥地に来ると、まるで人通りがない。
人が見つからない代わりに趣深い建物が見つかる。

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悟りがひらけそうな空間。
奥地ならでは。

hamanako_walking23.jpg
ここを渡れば湖西市。
全行程のだいたい2/3。
約10時間経過。

そして。

デジカメの電池が切れた。
ここまでで撮影した枚数は約500枚。
メモリは十分だが電池が足りなくなった。

サハラ砂漠には、どれだけ電池がいるのだろうか・・・


そんなことを思いつつ、残りを歩く。

ひたすら歩く。
日が暮れても歩く。

たまに休憩。

歩き続けること数時間。

ようやくゴール。

足が、かなりオモシロい。
登山のときとは、また違ったオモシロ具合だ。

舗装されたロードを歩くのと、自然の山道を歩くのでは、やっぱり違うようだ。


それにしても、我ながらよくやった。
サハラマラソンのための自信になるね。


<<今日のトレーニング>>

浜名湖一周ウォーキング。

距離: 60.6km
時間: 14hr

抽象化してまとめてみる

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抽象度を上げたり下げたりする能力が高まると、何かとものごとを理解しやすくなる。

先日、缶詰めイベントでも出たが、こんなやりとりについて見てみる。

朝、時間通りに来ないって、どうよ?
会社だったら成り立たなくなるでしょ。

いやいや、遅れてきた場合にだって、何か理由があるかもしれないじゃない?
それを確認せずにぶった切っちゃっていいの?


遅刻の可否について言い合っている。
また別の場面。

このイベントに参加する人は、みんな同じ目的でしょ。
今の自分のイヤなところを直したくて来てるんだよ。

そう?
僕は違うけど。
他の人だって、本人に聞いてみないと何が目的か分からないと思うんだけど。

これは、参加の目的についてうんぬん。
さらにはこんなのも。

眠いと思うから眠いんだ。
目は覚めるものではなく、覚ますもんなんだよ。

いや、今はとりあえず話し合うより休んだ方がよさそうじゃない?
そうしないと、相手の話をマトモに理解できる余裕が出てこないし。

などなど。

個々を見ると、それぞれに特有の問題があるように見える。
それぞれ別個に対応していかないと解決できないように見える。
具体的な事例ひとつひとつが独立しているように見える。


しかし。

抽象度能力が高いと、こんな捉え方ができる。

いずれも、普遍主義と相対主義の対立だ。

遅刻厳禁、目的はひとつ、眠気は気力次第。
どれも、主張している人の中には、これが絶対、というポイントがある。
つまり普遍。

それに対し、反対者の言は一貫している。
他にも可能性があるんでない?
つまり相対。


ここで挙げた事例は、全て普遍主義vs相対主義の構図として捉えることができる。

このような捉え方ができれば、対策も立てやすい。
普遍主義vs相対主義の対策を適用すればよいだけだ。

抽象化できなければ、遅刻対策、目的対策、眠気対策、それぞれがそれぞれに必要になる。
だけど、抽象化できていれば、まとめて対応できる。

もちろん、抽象化できたとしても具体的にひとつひとつ対応したければ、そうすることもできる。


ものごとを抽象化する能力が高い、ということはこういうこと。
個々の問題を共通の問題として捉える能力が高い、ということ。

共通の問題として捉えられれば、共通の対応策も使うことができる。
必然的に問題を解決する能力が高まる。


抽象化、便利だ。


<<今日のトレーニング>>

夜間、晴れ、水500ml、BCAA前後各5g、マサイ。

距離: 9.0km
時間: 65min

動物と犬とチワワ

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動物が乗り物に乗った。

という文章があったら、どういうイメージが湧くだろうか。
何かしらのイメージは出てくるだろう。

犬が自動車に乗った。
ラクダが船に乗った。
パンダが飛行機に乗った。

どれもありえる状況だ。

どの状況も、
動物が乗り物に乗った。
という文章に当てはまる。

逆に言えば、この表現では、いくつものイメージが許容されてしまう。

動物、といわれれば、犬でもラクダでもパンダでもよい。
乗り物、といわれれば、自動車も船も飛行機も指す。

これらの全ての可能性をひっくるめた表現が、
動物が乗り物に乗った。
になる。


もっと特定の状況に限定したい場合は、より具体的な表現が必要になる。

犬が自動車に乗った。

この文章は、
動物が乗り物に乗った。
には合致する。

しかし、
ラクダが船に乗った。
わけではないし、
パンダが飛行機に乗った。
わけでもない。

より具体的な状況を描写している。

動物が乗り物に乗った。 > 犬が自動車に乗った。

のような関係が成り立っている。


動物や乗り物は、犬や自動車よりも抽象的な表現だ。
抽象度が高い。

逆に、抽象度が低い、ということは、具体的である、ということ。
抽象度を下げる、といえば、具体例を挙げる、ともいえる。


犬が自動車に乗った。
という文章は、さらに抽象度を下げることもできる。

チワワがMRワゴンに乗った。
シェトランドシープドッグがフェラーリF430スパイダーに乗った。
ゴールデンドードルがキャデラック・エスカレードに乗った。

より具体的な表現になる。


前の文章と抽象度を比べてみるとこうなる。

動物が乗り物に乗った。 > 犬が自動車に乗った。 > チワワがMRワゴンに乗った。


これらの文章を見ていると、いくつか分かってくることがある。

抽象度が高い方が、意味は理解しやすい。
だけど、具体的なイメージが人によってバラつく。
場合によっては、そもそもイメージが湧かないこともある。

一方、抽象度が低い方は、単語を知っていればイメージはしやすい。
しかし、抽象度が低ければ低いほど、単語を知っている人は減る。
単語が通じなければ、イメージされない。


というわけで。

抽象度の高さは、一概に高ければよいものでも低ければよいものではない、ということがわかる。
どちらも一長一短。
聞き手の知識量や理解度を考慮して抽象度を合わせないと、話が通じない。

別の側面から言ってみれば、万人に正確に意図を伝えられる方法はない。
同じ表現でも、相手によって通じたり通じなかったりする。


コミュニケーションをとる際は、抽象度を意識してみるとよい。
話をしていて、面白いと感じるとき、楽しいと感じるときは、どれくらいの抽象度で話をしているのか。
意外と興味深い発見があるかもしれない。


<<今日のトレーニング>>

夕方、晴れ、水500ml、BCAA前後各5g、トレランシューズ。

距離: 8.1km
時間: 60min

ヨガ: 90min

アイデンティティvs死の意識

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明日死ぬとしたら、と考えるのは、自分の人生の質をアップさせるのに効果的だ。

今まで、見過していたことに光が当たるからだ。
このまま死んで後悔しないか、というところ。
このままの生活を続けて最後に満足するか、というところ。

そういった見過していたところに目が向く。


人は死ぬものだ、ということは避けがたい事実だ。
この事実は誰もが認めている。
いつまでも死なないでいられる、とは思わない。
不老不死が現実にありえる、とは信じられない。

それなのに、死を現実味を帯びて実感している人は少ない。

いつかは死ぬ。
だけど、それは今ではない。
明日でもない。
来月でもないし来年でもない。
いつか分からないけど、遠い先のこと。

無意識的にそういう前提で日々を送っている。


だからこそ、明日死ぬかもしれない、と考えてみるのは意味がある。
見えなかったものが見えてくる。

日常的に、深く考えずに繰り返している行動を見直すようになる。
ひとつひとつの行動に目的を見出すようになる。


日々、このように意識して生活すると面白い変化が出てくる。

自分がより自分らしくなった、と感じるようになる。
その一方で、かつての自分が自分らしくなかった、と感じるようになる。


なんであんなに毎日毎日テレビばかり見ていたのだろうか。

本当は、自分がテレビを見たかったのではない。
番組製作者がテレビを見せたかったのだ。

自分はそれに都合良く乗せられただけ。
番組製作者がやりたいことを、自分がやりたいことと錯覚していただけだ。


そういう気付きが得られたりする。
頻繁に。

今まで、いかに自分以外の誰かに作られた人生を送ってきたのかどんどん気付いていく。


これは、ある意味、怖いことだ。
今まで、自分だと思っていたものが、他人に作られたものだ、ということに気付いてしまうから。
誰にでも、ここを認めることに心理的な抵抗がある。

人間には、誰にでもアイデンティティを守る機構があるので、仕方がない。
自動的に抵抗するようになっている。

ただ、抵抗の大きさは個人差がある。

人によってはどうしても受け入れられない。
そういう人は、気付くことに全力で逆らう。
本人は逆らっていることに気付かない。
あらゆる示唆を曲げて解釈し、それまでの自分を守ろうとする。

その結果、また、もとの生活に戻っていく。
死を、自分には関係ない、遠いものだということにして。


明日死ぬかも、という思考実験をした後、生活に変化が出るか出ないかの差は、このあたりにある。
過去の自分を守りたい欲求が、死の実感より強ければ変化はない。

生活を変えたい、人生を変えたい、と思うのであれば、この点を意識してみるとよい。
過去の自分を守りたがっている、というのに気付くこと。

死の実感があまりにも強烈であれば、心理的な抵抗を吹き飛ばして、過去の自分と強制的に決別させられることもある。
だけど、今の安全第一の日本では、そこまで強烈な体験には巡り会う機会はほぼ皆無。
日常の中で死を意識するような出来事は、まず起こらない。

だとしたら、前者のアプローチしかない。

過去の自分を守ろうとしている。
今後も過去の自分の延長で生活したい。

この欲求が最大のネックになっている、ということに気付くこと。
それが第一歩だ。


<<今日のトレーニング>>

台風が・・・

間接的に死の体験を

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明日死ぬとしたら、今日何をするか。

というテーマは、しばしば取り上げられる。

今日が人生最後の日だとしたら、どういう過ごし方をするか。
これを考えるのだ。

会社に行って夜遅くまで作業するだろうか。
記憶にも残らないようなテレビを見て過ごすだろうか。
いつまでもベッドから出ないで惰眠を貪るだろうか。


明日死ぬ、という意識を持ち出してみると、ひとつひとつの行動を考えはじめる。

そうして考え出された結果の行動はどうなるか。
きっと、今までとは違ったものになるだろう。

様々な面で、優先すべきものが変わってくるのではないだろうか。

会社と家族。
他人の目と自分のやりたいこと。
お金と人間関係。
テレビと勉強。

日々の生活を支配している価値観の優先順位が変わってくるだろう。

そして、毎日をそのように過ごすとどうなるだろうか。
毎日を人生最後の日だと思って過ごすと。

きっと、非凡な成果を出すに至るに違いない。
それを目指そうではないか。


というのが、明日死ぬとしたら、の趣旨だ。

言っていることは、もっともらしい。
確かに、今日しかない、と心の底から思ってしまえば、非凡な暮らし方になるだろう。
それを何年も続ければ、何らかの分野で名を残すことも十分有り得る。

ただし。

この前提はなかなかにキビシイものがある。

明日死ぬ、と思い込むことが普通の日本人には、できない。
死の実感が持てない。
死ぬ、ということがどういうことか分からない。

我々にとってみれば、死とは遠い世界の話だ。
人が死ぬ、という話はテレビの中、雑誌の中でしか巡り合わない。

このような状況で生活している我々としては、残念ながら、明日死ぬとしたらの論理は効果が薄い。

確かに、今まで死を想像もしなかった人にとっては多少の刺激になる。
だけどやっぱり、高い効果は望めない。


直接、我々が死を実感するのは難しいが、ひとつアプローチできる方法がある。

それが、死を実感している人に触れること、だ。
死にかけた経験のある人。
あるいは、死ぬ人に接する機会の多い人。

こういう人の生き方は、凡人と違う。
日常的に、死ぬかもしれない、という意識が否応なく掻き立てられる。
常に、明日死ぬかもしれない、という圧力のもとで生活している。

彼らの体験は貴重だ。
我々には持つことのできない感覚を持っている。


我々が、直接死の実感を持つことは難しい。
だけど、これを持っている人と接することはできる。

そういう人を見たり話を聞いたりすると、影響を受けられる。
間接的ではあるが、我々の言動も変わってくる。
やがて意味のある生活ができるようになってくる。

まずは、それを目指すとよいのではなかろうか。


<<今日のトレーニング>>

雨が存分に降っていた。
足の冷え方がいつもより激しく、動きづらい。

夜間、雨、水500ml、BCAA前後各5g、マサイ。

距離: 9.1km
時間: 68min

宝くじに当たりたい人

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宝くじに当たりたい、と言っている人に会った。
3億円当ててリタイアしたいらしい。

そうすれば、いい家に住める。
おいしいものを食べれるようになる。
毎日決まった時間に会社に行かなくて済むようになる。


こういう話には、たまに遭遇する。
そのたびに思うことがある。

宝くじを当ててリタイアすることが、本当にやりたいことなのか。
それが実現すれば、死んでもよいと思えるくらいの究極の目標なのか。

逆に、本当にやりたいことをやるのに宝くじ以外の道はないのか。


宝くじ当選志望者にはまず、こういうことを聞いてみる。


3億円当たったとして、差し当たって何しますか?

ん~、とりあえず会社を辞める。

その後は?

海外に旅行でも行くかな。

帰ってきたら?

毎日、ゲームでもする。

それから?

・・・


3億円の野望を抱いている割には、安い願望だ。
数千万もあれば、全部達成してもお釣りが来そう。


実際、深く話をしてみると、宝くじはどうでもよい、という結論になることは多い。
お金もそんなに必要ではない、ということが分かることも多い。


ではなぜ、はじめに宝くじに当たりたい、と思ってしまったのか。
本当に欲しいものではない願望。
願望だと錯覚している願望。


それは、現状からの逃避、だ。

毎日出社しなければいけない生活からの逃避。
狭い部屋に住まざるを得ない状況からの逃避。
スーパーでタイムセールを見計らってしまう世知辛い家計からの逃避。

そういう現状からの逃避のために、作り上げた幻想が宝くじの当選だ。
何かから逃れたいと思っている。
宝くじに当たりさえすれば、逃れられると思っている。


この構図には問題がある。
逃避していることに気付いていない、という点だ。
何から逃避しようとしているのか本人は分かっていない。

分かっていないから、仮に宝くじに当たってしまっても、何がどうなるかイメージできない。
実際に当たってしまっても、何から逃避したいのかが分かっていなければ、結局満たされないで終わる。

無意識に逃避の手助けになると錯覚していた宝くじが、実は何の役に立たないからだ。
つまり、当たった宝くじだけでは、逃避が満足されない。


宝くじに当たれば、全てが解決する、というのは幻想だ。
何かからの逃避が表面化しているだけ。


ここに気付いたら、新たな世界が見えてくる。
その、逃避の元に光を当ててみればよい。

何から逃避したがっているのか。
それを探るのだ。


何から逃避したいのかが分かってくると、今やるべきことが見えてくる。
闇雲に宝くじを買って、運を天に任せる以外の道が見えてくる。

その先にこそ、本当に自分が欲しいものがある。


<<今日のトレーニング>>

夜間、晴れ、水500ml、BCAA前後各5g、マサイ。

距離: 9.4km
時間: 68min

塩バナナ

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ヨガ中に足が攣りそうになった。

痙攣だ。
こむら返りだ。


普段から体を動かしているし、健康的な生活をしている。
今日は準備運動もしていた。
というかヨガだし。

それなのに攣りそうになった。

この場合、必要なモノが体内に足りていなかった可能性がある。

足が攣るのは、筋肉が収縮してそのままになってしまうこと。
このような筋肉の異常は電解質が足りないときに起こりやすい。

とくに、カリウムとナトリウム。

カリウムはバナナに豊富に含まれる。
ナトリウムは塩。

なので、運動前はバナナの塩漬けでも食べておけば攣りにくくなるだろう。


幸い、今までトレーニング中に足が攣るようなことはなかった。
走っている途中で攣るのは避けたい。

今の身体の状態では電解質が足りないようなので、意識的に補充しておこうと思う。

塩バナナとか。


<今日のトレーニング>

久々のジョギング。
先日熱出していたのもあってか、イマイチ調子が出ない。

夕方、晴れ、水500ml、BCAA前後各5g、マサイ。

距離: 8.5km
時間: 67min

ヨガ: 90min
vision.jpg りっぷる(カワイヒデアキ)@浜松。2010年サハラマラソン完走を目指してトレーニング中。

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