2009年11月アーカイブ

だから鳥だ

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鳥は飛ぶ。
そして、私も飛ぶ。

だから、私は鳥だ。


という話の流れがあったとする。

これは正しいか?


<<今日のトレーニング>>

お休み。
どうも、フルマラソンから回復しきっていない。
先週の金曜のは、少しやりすぎだったかも。

早く治らないかな~。

オリンピックでメダルを取る、とか

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サハラ砂漠を走る、と聞くと、多くの人はムリ、と言う。

しかしながら、稀にムリではない、と思う人もいる。
さらに中には、実際走った人もいる。

ムリ、と思う人と、できる、と思う人は何が違うのだろうか。


自分自身、過去を振り返ってみる。
5年くらい前。

当時であれば、サハラムリ派だったと思われる。
5年前の自分と、今サハラをムリだと思う人たちとの間に違いはない。

だけど、今の自分はいけると思っている。
出場費払っているし。

とすると、どうやらここ5年の間に、ムリ派からイケル派に転向したらしい。
かつてはムリだと思っていたことが、今はイケルと思っている。


では、何がこの転向を促したのか。
ここ5年の大きな出来事を思い返してみる。

会社員からフリーランスになった。
知人がサハラマラソンを走った。
浜名湖を一周歩いてみた。
一皿9千円の牛肉を食べた。
ひとりで年商3億(推定)の人と会った。

などなど。


今、列挙してみて改めて驚いた。
かなり一般的ではない経験をしているなぁ、と。

それが、現在では非常識とは思っていない。
そういうことも有り得るのだと。
過去に常識だと思っていたものは、意外と狭い世界の中でのものだったと気付いたわけで。


ヘンテコな経験があればあるほど、ムリだと思うものも減ってくる。
サハラ走るのもイケルのではないかと思えてくる。
ヘンテコな経験かつ未知の体験によって、ムリ度が下がって、イケル度が上がった。

先日もフルマラソンを完走した。
これによって密かにイケル度は上がったに違いない。

巷では、100kmウルトラマラソンというレースが各地で粛々と開催されている。
40kmが大丈夫なら、100kmでもイケルのではないか、と思えてきた。

きっと、サハラマラソン完走の暁には、さらにおかしなモノもイケル射程に入るだろう。
楽しみだ。


そして、イケル度が上がると、対人関係でも役に立つ、という副作用がある。

ムリっぽい話を許容できる幅が増える。
ありえねー、みたいな話を受け入れられる度合いが高くなる。
包容力とやらが増す。

実際、人と話をしていても、反論したくなる場面というのが減ってきた。
他人の目標なり目的なりを否定しなくなってきた。

オリンピックでメダルを取る、とか、テレビで自分の番組を持つ、とか、サンスクリット語をマスターしてヨガスートラを読む、とか。

そういう話を聞いても、無条件で反発したくはならなくなった。

意外と、がんばればできるんじゃない?
みたいな。


ヘンテコな体験を積んでイケル度をどんどん上げていく。
他人の目標も、とりあえずイケそうな気分になる。
そういう人が増えれば、世の中さらに楽しくなるのではないかと思ったりする。


<<今日のトレーニング>>

ザックを入手したので、早速背負って走ってみた。
中には2リットルの水。
ザック自体が1kgくらいあるので、合計3kg。

この重さでこの距離なら、そこまで負担にならない。
もう少し重くしてみてもよいかも。

ちなみに、重り用の水は入れておきながら、飲用の水は忘れた(笑)。

夜間、晴れ、水なし、BCAA前後各5g、マサイ、ザック3kg。

距離: 10.3km
時間: 74min

砂漠に連行するブツ

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サハラに持っていくザックを入手。
先日、東京に行ったときにスポーツ用品店、登山用品店を探し回ってきた。

必要なザックは、実に特殊なのでなかなか売っていない。
7日分の食料と身の回りの物が入るもの。
かつ、背負って走り回ることができるもの。
かつ、230kmの距離に耐えられるくらい軽いもの。

そんなモノあるんかいな。

あるんです。

サハラマラソンも歴史がありますので。

ただし、ここにも市場原理は働いている。
欲しい人が少ない、イコール、流通していない。
つまり、フツーの店には置いてない。

フツーの店に来るフツーの客は、サハラを走ったりしない。

さらに悩ましいことに、ザックはレース中ず~っと身につけておくもの。
実際に触れてみないと、身体に合っているかどうか分からない。
通販で買う、という最終手段は、かなりリスキー。

このような事情があるわけで、直に触れられる店を探して試着する、という手順が求められる。

で、手順を踏んで入手した。


gregory_z35_blue.jpg
グレゴリーのZ35、Mサイズ。
容量36L、重量1420g。

例年人気のAdvent Proと同じようなコンセプトのザック。
Advent Proは既に製造しておらず、このモデルになった。

他に比較検討したのは、こういうの。
オスプレーのエクソス34、Mサイズ、34リットル、785g。
オスプレーのタロン33、Mサイズ、33リットル、920g。

軽さからいうと、エクソスかタロンの方がよい。
サハラ経験者によると、500gの違いは大きい、とのことだ。

しかしながら、試着して分かった問題点がある。
腰ベルトの位置が高すぎて、骨盤に乗せられない。
エクソスもタロンも、ほぼ肩のみで重さを受けとめることになる。

一方、Z35は、腰ベルトが妥当な高さにある。
重さを肩と腰に分散できる。
先月の浜名湖一周で経験したが、肩だけで荷物を背負うのはかなり負担が大きい。
たとえ大した重みでなくても、長時間になると無視できなくなってくる。

多少重くても、肩だけで支えるよりかはよいだろう、と判断してZ35にした。


合わせてシュラフも入手した。
こちらは、あまり選択の余地はなく、値段で即決。
モンベルのU.L.アルパイン・ダウンハガー#5にした。

#5という数値は、どの寒さまで耐えられるかを示すもの。
#5の限界は6度。


ザックとシュラフについては、サハラ経験者のちはるくんにいろいろとアドバイスをもらった。
おかげで、ザックもシュラフもスムーズに決められた。
ありがとうございます。 > ちはるくん


参考:
グレゴリー、Z35
オスプレー、エクソス&タロン
U.L.アルパイン ダウンハガー#5

<<今日のトレーニング>>

ジョギングはなし。
マラソン後の回復中。

ヨガ: 90min

つくばマラソンレポート、印象編

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スタート前。

曇りときどき小雨。
予報を見ても、レース中いっぱい寒さは続きそうだ。

何を着て走るかは天気次第だと思っていたので、半袖シャツ、長袖ジャージ、ハーフパンツ、ロングパンツを持参していた。
全天候に対応できるように。

寒さ絶好調がほぼ確定したので、ウェアも確定。
長袖、長パンツのジャージ上下で行くことにする。

競技場に入ると、参加者と応援とスタッフで埋まっている。
参加者だけでも1万人以上だから、相当な人数だ。
そのためか、全体的に緩い雰囲気が漂う。

何をやっても注目されなそうだ。
明らかに走れなさそうなランナーもみつかる。
初めてのフルマラソンだけど、リラックスできた。


競技場のアナウンスで、スタートまであと15分、というような通知がされる。
事前の情報で、スタートラインを切るまでに何分もかかるというのが分かっていたので、まだまだ余裕な気分。
周りを見ても、やっぱり余裕な表情のランナーが大勢いらっしゃる。

あと3分くらいになってから、競技場からスタート地点に移動する。
スタートの号砲が鳴ってから、何分も経ってからようやくスタートラインを過ぎる。


スタート~20km。

予想はしていたが、人が多い。
好きなペースで走れない。
諦めて適当なランナーの後ろをついていくことにする。

コース上からランナーが絶えることはない。
距離が進めば、バラけてきて多少走りやすくはなるが、やっぱり自由に走れるようにはならない。

反面、迷う心配がない、という安心感はある。
ついでに、集団の中を走れば寒くない。
自由と引き換えに、安心と暖かさが得られた。


20km地点。

20kmまでは、事前に走った経験がある。
その経験のおかげで、特に焦ることもなく来られた。
給水もとくに問題なし。

ここまでは問題なかったけど、足の痛みが出てくるのもこのあたりから。
痛くなり始めてからさらに走り続けるとどうなるかは未知の領域だ。


25km地点。

とても痛い。
マラソンは30kmからが勝負だ、というが、あれはウソだ。
25kmからだ。

マラソン業界では、30km過ぎたら人生をかけろ、という。
5km前倒しして、この地点で人生をかけることにする。

かけることにしたいのだが、このままだと意味がよく分からない。
人生って何?

意味が分からないので、勝手に解釈してしまおう。
「人生」を「命」に置き換えてみる。
そうすると、命をかける、という意味になった。
つまり、走らないと死ぬ、と。

では、走らないと死にそうな場面とは、どういうものか。
臨場感アップのために、具体的なシーンをイメージしてみる。

あれだ。

でかくて丸い岩。
あれが後ろから転がってくる。
これをイメージしてみよう。

ごろごろごろ・・・。


今イチやる気が出ない。
下り坂ではないし、曲り角いっぱいあるし。
むしろ気が抜ける。

別の案にしよう。

発狂した変人が白い仮面を身に付けてチェーンソーを振り回しながら追い掛けてくる。
追いつかれると無惨にも切り殺され、つくばの道端に死体が転がり血の海が広がる。

これはどうか。

ぎゅいーんぎゅいーん・・・。

やる気、出ない。
死体と血の海、別によいではないか。


どうやら、自分の命をかける、という点に魅力を感じないらしい。
死ぬときは死ぬし、みたいな。

そう考えていると、ふとギリシャ神話が出てきた。
エウリュディケ伝説。

約束を破れば大事な人が消滅する、という趣旨だ。
しかも、大事な人は既に死んでいるので、単に命がかかっているだけではない。
魂ごと消える、という話だ。

伝説では、オルフェウスくんがエウリュディケさんを助けに行く。
途中まではうまくいくのだが、最後に約束を破ってしまいエウリュディケさんは消滅する。

そんなわけで、エウリュディケさんの魂がかかっていると仮定して走ることにしてみよう。
約束はレースを走りきること。
途中で歩いたり休んだりすると、彼女が消滅する。

うん。
これならいけそうだ。

岩とかチェーンソーよりも、やる気が出る。
自分が死ぬはいいが、大事な人に消滅されると困る。
エウリュディケさんに感謝しつつ、がんばってみる。


30km地点。

業界では、このあたりがキモといわれている地点。
30kmを境にして、足の感覚が耐えがたくなってくる。

業界では、そういうことになっているが、私の場合既に5km前に始まっている。
エウリュディケさんのおかげで何とか走っていられるが、さすがに精神的な壁は厚い。

誰かが知らないうちに道路を引き伸ばしたりしているのではないか。
あるいは、道路が動く歩道のごとく逆方向にスライドしているとか。
おかしな妄想が溢れてきて自分でも驚く。

ということで奥の手。

携帯してきたプレイヤーで師匠の声を聞いてみよう。
これを聞けば気が紛れるし、やる気も出るはず。

スイッチオーン。

Low Battery...

師匠、沈黙。

何?
師匠、燃料切れ?

おかしいなぁ。
直前にエサを与えておいたのに。

もしかして、バッグの中で暴走してしまったのか。
師匠、誰も聞いていないにも関わらず、話していたのか。

さすが、師匠だ。
妥協のないその姿勢。

そんなわけで、奥の手計画、即座に頓挫。
改めて師匠の偉大さを確認しつつ、空を仰ぐ。


35km地点。

大学に戻ってきて、応援が増えてくる。
ありがたい。

と同時に、応援とは何か、という考えが湧いてきた。

沿道の応援は確かにありがたい。
ありがたいのだが、彼らはフルマラソンをどれほど分かっているのだろうか。

肉体的な苦痛と精神的な葛藤。
私自身、ここに至って始めて分かったものだ。
彼らには、それが分かるのだろうか。
分かっていて、がんばれ、とか、あと少し、とか言うのだろうか。

視点を移すと、目の前には走っているランナーがいる。
彼らは、分かっているだろう。
同じように痛いし休みたいはずだ。


そう思うと、人を応援する、という行為に違った意味が見えてきた。
最高の応援とは何か。

それは、自分がやっていることを見せること、ではないか。

マラソンなら、目の前を走る。
ビジネスなら、業績を上げて、やったことを見せる。
人生なら、後悔しない生き方をして、それを伝える。

あーしろ、こーしろ、と言うのは後からでよい。
自分でやってみて、それを見せるのが先決。
それが応援になる。

見せられることをやっていないなら、人の応援なんてできはしない。

なんて思ってしまった。


いや、沿道の声援が励みになったのは本当なんだけどね。
それとは別の話、ということで。


40km地点。

ペースが落ちてくる。
痛いのは我慢できても、動かないものは動かない。

フォームをいろいろいじってみると、悩ましい事実が発覚する。
動くけど非常に苦痛を伴う走り方と、あまり痛くないが牛歩並みに遅い走り方がみつかった。

あと2km。
どうしたものか。

あと2kmなのに、ルートを逸れて休む人が目立つ。
そういう人を見ると、自分を見ているような気になってくる。

いつあのようになってもおかしくない。
たまたま自分の足がまだ動いているだけ。
人ごととは思えない。

500m先の沿道に、足を抱えて座っている自分が目に浮かぶ。
リアルに。


ふっと、エウリュディケさんが出てきた。
あー、足を止めると消えちゃうんだったね。

動くけど非常に苦痛を伴う走法、採用。


ゴール直前。

まだ5時間切れますよー。
風船おじさんが追い付いてきた。
いや、むしろ自分のペースが落ちてきた。

エウリュディケさんと風船おじさんに追いかけられる。
ダブル追いかけ。

追いかけられ続けて数十分。

競技場に帰ってきた。
助かった。

めでたく風船おじさんに先立ってゴール。

エウリュディケさんも消えずに済んだし、岩に轢かれたりチェーンソーに切られたりしなかった。
満足。


そして・・・。

結局、フルマラソンとは何だったのか?

私が走ったところで世の中は何も変わらない。
5時間ランナーがひとり増えただけだ。

世の中が変わらなくても自分は変わっただろう。
フルマラソンという未知の経験が得られた。
この前後では何かしら変わったはずだ。

変わったはずではあるが、今後の日常生活に何か変化はあるだろうか。
多分、ない。

世の中も変わらず、日常も変わらない。
だとすれば、あの5時間は何だったのか。


単に自分のやりたいことをやっただけ。
それだけ。

単なる自己表現。
思ったことを書いたり、好きな曲を弾いたりするのと同じ。
誰かのため、何かのためにやったのではなく、それ自体が目的になる。

日常の延長であり、自分に対して自分を表現した、と。
私はこういう人間ですよ、と。

自分で自分にそれを見せて、これまた自分で自分を評価する。
結果、自分で自分によかったね、と言える。

日常はそれの繰り返し。
今回のマラソンもそれと変わらない。

ただ、一歩だけ真の自分に近づいた。

つくばマラソンレポート、写実編

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2009年11月22日、第29回つくばマラソン。
フルマラソンを走りながら、要所要所で撮影した。
世にも珍しいランナー視点の記録をどうぞ。

tsukuba01.jpg
8:45。
筑波大学の入口。
つくばマラソンの参加者かその関係者だらけ。

tsukuba02.jpg
仮設トイレ。
参加者だけでも1万人以上。
これだけトイレを並べても、行列ができる盛況っぷり。

tsukuba03.jpg
競技場。
このトラックがゴールになる。

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9:30スタート。
人が多すぎて走れず。

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スタート10分後。
やはり人だらけ。
走れない。

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スタート30分後、4km地点。
ここまでくると、ようやく人がバラけてきてなんとか走れる。

そして、初めての給水所。
目印が立って分かりやすい。

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水の用意が追い付いていない。
以降の給水所では、こういうことはなかった。
スタート直後の地点でランナーが多すぎるからか。

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飲んだらポイっと。
歩道は紙コップの山。

tsukuba09.jpg
5km地点、立体交差。
果てしないく続くランナーの様子が一望できる。

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交差中。
一望され中。

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道路管理の方々。
彼らが通ったあとは1車線に限定される。
速いと広い。
遅いと狭い。

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気になるトイレ。
行列ができる。

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あるいは、木立を利用して時間を節約。

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5時間ペーサーの風船おじさん。
最後まで彼についていければ、ちょうど5時間でゴールできる。
ペーサーの後ろはランナーがたまってダンゴ状態。

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14km地点。
早くも折り返してきた先頭集団に遭遇。

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16km地点の給水所。
給水所で渋滞が起こるのは仕方がない。
コーラといえば炭酸、花見といえば酔っ払い、給水所といえば渋滞だ。

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折り返し地点。
奥の黄色い三角が目印。

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折り返した。

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折り返し直後の中間地点。
タイムは2時間25分。

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23km地点の給水所。
あるいは給バナナ所。

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沿道の応援。
ロッキーのテーマが大音量。

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対向車線に現れた収容車。
リタイアしたランナーが収容される。

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収容の警告看板。

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おしるこ。

tsukuba25.jpg
34km地点。
沿道で休む人、ストレッチする人、歩く人が増えてきた。

tsukuba26.jpg
そんな窮地を救う、あんぱん。
ぼくを食べて。

tsukuba27.jpg
まさかの赤信号。
交通整理スタッフの制止を振り切っていくランナーもちらほら。

tsukuba28.jpg
まさかの赤信号で待つ人々。
車通りがなくても、信号には従う行儀のよい我々。

tsukuba29.jpg
40km地点。
あと2km。

tsukuba30.jpg
はい、撮影。
まんざらでもないカメラ目線。

tsukuba31.jpg
帰ってきた競技場。
応援の人々が大集合。

tsukuba32.jpg
最後のトラック一周。
あと100m。

tsukuba33.jpg
風船おじさんが迫ってくる。
数km前から、まだ5時間切れますよー、と大声で連呼。
かなりのプレッシャー。

tsukuba34.jpg
ゴール。
5時間ぎりぎり。

tsukuba35.jpg
風船おじさんもゴール。
彼が追いかけてこなければ、5時間は切れなかった。

tsukuba36.jpg
ゴールしたら、流れに沿って速やかに移動。
この後、タイム計測用チップが回収され、記録証が発行される。

tsukuba37.jpg
タイム計測用のチップ。
42kmの苦楽を共にしたモノ。
シューズにくっついていただけだけど。

tsukuba38.jpg
記録証の発行所。
チップで計測したタイムが即座に反映される。

tsukuba39.jpg
記録証プリントアウト。
これにて一連のフルマラソン活動は終了。
あとは自由に帰ってよし、と。

ちなみに、閉会式、というか表彰式はあるにはあるが、上位者のタイムに合わせてある。
つまり、2時間以上前。
5時間レベルのランナーは式のカケラすら見ることもできない。

tsukuba2009_map.png
コースマップ。
この一枚に42kmのドラマが展開された。


レースの一部始終はこんな感じだった。
フルマラソンを写真撮影しながら走ったランナーは、そうそういないだろう。
ランナーの視点でマラソン気分を味わてもらえればよいのではないかと。

こうやって並べられた写真を見るだけだと、実にあっさり感じられるかもしれない。
しかし、実際には5時間もの時間が凝縮されている。
走り続けて5時間。
学生であれば、一日分の授業時間くらいになるかもしれない。

足の感覚は、今までの人生で感じたことのない未知の領域に入る。
様々な思いが湧きもした。

次は、そのあたりを書いてみようと思う。
初めてフルマラソンを走った、いちランナーがどの地点で何を思い、何を頼りに走ったか。
つくばマラソンレポートの印象編。

お楽しみに。

つくばマラソン完走

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つくばマラソン、無事完走。
タイムは4時間58分。

初めてのフルマラソンであり、とにかく完走することを目標としていた身としては上出来だ。
詳細は、帰宅してからアップしようと思う。

さしあたって結果報告だけでも、ということで。

つくばマラソン前日

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東京徘徊中。

おシゴトのミーティングやら、お勉強仲間との交流やら、兄夫婦との団欒やら。
盛り沢山。

明日はつくばマラソン。
がんばらない程度にがんばることにする。

そして、5時起きに備えて今日は全力で早寝する。

<<今日のトレーニング>>

カーボローディング中。
ひたすら食べる。
ジョギングはなし。

マイワールド、ヒズワールド

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昨日の続き。


赤くて丸くて、緑のもさもさがついているやつ。

これは、誰が見てもあなたが見ているように見えているのだろうか?
誰が見ても、あなたが見ているのと同じように赤くて丸いだろうか?

これを確認するにはどうすればよいか。


とりあえず、手近な人にトマトを見せてみる。
そして、どのように見えるか聞いてみる。

こんな答えが返ってくる。

赤くて丸くて、緑のもさもさがついている。


あ、自分の見え方と一緒だ。
同じように見えているんだ。

めでたしめでたし。


・・・と、なるのがフツーの場合だ。
だが、これだけでは同じように見えているとは言えない。

なぜなら、彼の「赤い」と私の「赤い」が同じ色だという保証は何もないからだ。
マイ赤とヒズ赤は別物だ。
同様に、マイ丸いとヒズ丸いも別物。
マイ緑とヒズ緑、マイもさもさとヒズもさもさもしかり。
一致しているとは限らない。

もしかしたらヒズ赤は、マイ緑のような色かもしれない。
ヒズ赤、ニアリーイコール、マイ緑。

そうだとしたら、彼は生れてこのかた、赤いものは全て、マイ緑の色に見えていたことになる。
トマトもニンジンもリンゴもポストも朱肉も、私でいうところの緑色だ。

だけど、彼は、ヒズ赤がマイ緑であることなど知りようがない。
その色が、彼の中では「赤」という色ということになっている。
その認識で今まで生きてきたわけだし、それで困ったことも起こらない。
だから、ヒズ赤がマイ赤と違うということに気付くことはない。


実際、私の友人で色盲気味の人がいる。
色盲というのは、特定の色の区別できない、ということだ。

つまり、乱暴に言ってしまえば、色盲の人にとっての赤は、そうでない人の緑である。
ピーマンと赤パプリカが同じに見える。

そういう傾向のある友人がいたのだが、彼は10代後半に至るまで自分が色盲気味であることに気付かなかった。
自分が気付かなかったわけであり、周りの人も誰も気付かなかった。
ある資格を得るために、かなり詳しい健康診断を受けて初めて発覚した。

彼が、我々と同じように世界が見えていないのは明らかだ。
なのに、誰もそのことに気付かない。
自分でさえ気付かない。


つまり、トマトの見え方が万人で共通であるという前提は、かなりアヤシい。
マイ赤がヒズ赤と違う可能性が常にある。
さらにその上、違いを確認する方法が原理的にない。
彼の感覚を直接得ることができるのは彼だけであり、誰かに伝えようとしてもヒズ表現を使うしか方法がないからだ。

同じことがトマトだけでなく、キャベツにもキュウリにも言える。
これらを、自分と同じように人々が見ているか分からない。

さらに、見え方だけでなく、聞こえ方、感触の受け方、味や匂いの感じ方も同様。
自分の声も、毛布の感触も、ゴルゴンゾーラの味も、ストラディバリウスの音も、温泉の湯加減も、新幹線の速さも。
全部、私と違ったように感受されている可能性がある。

つまり、住んでいる世界が文字通りまったく違うということがありえるのだ。
マイワールドとヒズワールドだ。
これが、一致していると期待するのは、かなり厳しい。
いわんや、大勢の人々の間で一致している、というのは相当無理がある。


自分は、マイワールドに住んでいる。
彼は、ヒズワールドに住んでいる。
マイワールドとヒズワールドが一致しているかどうかを確認する方法はない。

自分以外の人がどういう世界に住んでいるか、さっぱり分からないのだ。
分かる手掛りが得られない。
自分は、マイワールドしか認識できない。

こういう考え方を観念論といったりする。
我々は、自分の観念の中でしか生きられない、といわれたりするわけだ。


<<今日のトレーニング>>

カーボ鋭意投入中。
ジョギングは本番までお休み。

ヨガ: 90min

赤い、丸い、緑もさもさ

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目の前のトマトがあるとする。

あのトマトだ。

そう。

赤くて丸くて、緑のもさもさがついているやつ。

アレ。


アレを見れば、我々は誰でもトマトだと思う。
キャベツだと思う人もいなければ、キュウリだと思う人もいない。
赤いし丸いし。

さて、ここでひとつ質問。

トマトは、誰が見てもあなたが見ているように見えているのだろうか?
つまり、誰が見ても、あなたが見ているように赤くて丸いだろうか?

むむ・・・。

おかしな質問だ。
おかしな質問だと思ったあなたは正常。

むしろ、おかしな質問だと思わなかったら、変態の領域に片足突っ込んでいる。
もし、答えが分かってしまうようだったら、つまり、何の話をしようとしているのか分かってしまうようなら、めでたく変態だ。
我々が目指しているように。


フツーに生活していたら、このような問題を考える余地はない。
考えなくても十分文化的な生活が送れる。
トマトの見え方が自分と他人で違うかどうか、というような問題は。

本来省エネ指向のノーミソは、余計なことにエネルギーを使わない。
使いたがらない。
このような、日常生活に支障をきたさない問題は扱わないようになっている。

だけど、ここはひとつ敢えて余計なエネルギーを注いでみよう。
ムダの中にナントカがある、ということで。


トマト。

差し当たって、一番身近な人が自分と同じように見えているかどうか確認するにはどうしたらよいか。

何色か聞いてみる?
大きさを測ってみる?
形を図示してもらう?
あるいは、事典でもひいて定義を探してみる?

何でもよいけど、これを考えてみる。
どうやったら、その人の見え方が確認できるか。
そして、それで本当に自分の見え方と彼・彼女の見え方が一致している確証が得られるか考えてみる。

そうすると、どうなるか。

どうなるのだろう。

続きは、次回に・・・


<<今日のトレーニング>>

マラソン本番まであと4日。
それに備えて、今日は控え目なメニュー。
明日から当日までは、カーボローディング。
つまり、炭水化物2倍。

夜間、晴れ、水なし、BCAA前後各5g、トレランシューズ。

距離: 5.2km
時間: 31min

だからサハラマラソン

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人間、何を目指して生きていくべきか。

生きていれば、誰しもが抱く疑問だ。
この疑問に対して、ひとつの答えがある。

結論から言ってしまえば、こうだ。

我々は真の自分に近づくために生きている。

これだ。
真の自分。

アヤシい響きだ。

だけど、アヤシいのは仕方がない。
説明するのが非常に難しいし、理解するのも簡単ではないから。
簡単ではないが、それを乗り越えれば日々が実にサッパリと過ごせるようになる。

というわけで、この答えを得てしまった私は日々サッパリ過ごしている。
このサッパリ感は、是非とも分かち合いたいと思う。

そんなわけで、がんばって説明してみる。


まず押さえておきたい点は、真の自分とは何か。

残念なことに、我々はこれを認識することはできない。
なぜなら、人間は自分の持っている知識や経験を離れては何も解釈できないからだ。
真の自分が、今考えられる範囲の中に入っている、という保証がない。

ピザを食べたことがなければ、真の自分がピザ好きかどうか分からない。
マラソンを走ったことがなければ、真の自分が長距離走に向いているかどうか分からない。
赤色が何か知らなければ、ポストが何色か分からない。
真の自分について考えたことがなければ、真の自分が真の自分について考えるかどうか分からない。
自分について考える主体と考えられている客体を区別する概念がなければ、この投稿は意味が分からない。

ある時点で、これが真の自分だ、と思ったとする。
それは、その時点で把握できる自分が思う真の自分、に過ぎない。
その後、今までにない体験をしたり、今までにないモノに触れたりすると、考え方がガラっと変わったりする。
その影響で、真の自分だと思ったものが、やっぱり違った、ということはある。

自己を認識する自分は、刻一刻と変化する。
なので、今、真の自分だと思ったモノは、次の瞬間では真の自分ではないモノ、になり得る。

その意味で、真の自分とは、永久に捉えられないもの、だといえる。
どこまで行っても、真の自分に達することはない、ということだ。

真の自分を認識することは、できない。
これ重要。


真の自分を認識することができないのであれば、どうすればよいのか。

近づくようにする、というのが、その答えになる。

真の自分を直接認識することはできないが、近づいたかどうか判断することはできる。
ポイントは、近づいたかどうかは後になって分かるものだ、ということ。
事前に近づく道は知り得ない。
大雑把な予想ができるだけで。

その前提を踏まえた上で、こういうことをする。

何でもよいからやってみる。
やってみたら何かしら自分が変化する。
変化した上で、変化前の自分と変化後の自分を比較する。
比較した結果、感触が得られれば、真の自分に近づいている。
そうでなければ、近づいていない。

これだけ。

近づくかどうかを事前に知ることはできない。
だから、やってみて後から判断することが欠かせない。
やらなければ、その後に自分がどう変化するかも分からないし、その方面に真の自分がいるかどうかも分からない。

これは、他人に聞いても分かるものではないし、調べて掴めるものでもない。
判断するのは自分しかいない。

他人の意見や調べて分かることは、参考にはなる。
参考にはなるが、決定打にはならない。
真の自分に近づくかどうかは、自分の人生全体に関わる問題だ。
何かを参考にする際は、人生全体に関わる、という点を考慮するように。


ここまで話が進めると分かってくることがある。

真の自分に近づくためには、いろいろ試すしかない。
試したものごとの量がものを言うのだ。

食べたもの。
行った場所。
考えたこと。
読んだ本。
参加したイベント。
話した人。
やったスポーツ。
弾いた楽器。
書いた文章。
などなど・・・。

そういう活動の中で、どれだけ豊富な経験を得られるか。
経験が少なければ、それだけ真の自分への手掛りが少ない、ということになる。
自分は何が好きなのか分からない、何をしたいのか分からない、という状態になってしまう。

100を試して99が外れる場合もある。
そういう場合でも、外れた99の先には真の自分がいない、ということが分かる。
何もしないよりかは、遥かによい。


そういうわけで。

レッツ自分探し。
だけど真の自分は永遠のナゾ。
それでも探すのだ。


<<今日のトレーニング>>

フルマラソンに向けて休憩中。

完走するなら倍にしろ

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来週、つくばマラソンに出場する。

マラソンは言うまでもなく、何時間も走り続けるという運動。
別の言い方をすれは、長時間エネルギーを消費し続ける運動。

長時間エネルギーを消費し続けるので、体内の燃料の減りも激しい。
通常では必要ないほどの量を要求されたりする。

マラソンというと、しばしば30kmの壁が話題になったりするが、原因は燃料不足だ、という話だ。
ガス欠になって、どうにも足が動かなくなる、という状況だ。


そんなわけで、いつもより燃料が欲しいマラソン向けの食事法というものがある。
長距離走用の燃料を身体の中に溜め込みましょう、という方法だ。

名付けてカーボローディング。
カーボ、は炭水化物。
ローディングは、積み込むこと。

つまり、炭水化物を身体に積み込めるだけ積み込め、ということだ。


積み込んだ炭水化物は、ブドウ糖にされて血液中を流れる。
このブドウ糖がエネルギー源となる。
つまり燃料。
すぐに燃える。

食べた直後にエネルギーが必要ない場合は、ブドウ糖は肝臓や筋肉に貯蔵される。
貯蔵されるのだが、ブドウ糖は燃えやすくて、ちまちましていて、ばらばらしている。
そのままの状態で保存しておくのも保守管理の面から見てもよろしくない。
そこで、ブドウ糖は貯蔵される際に安全装置付きで省スペースなグリコーゲンという塊にされる。

だから、カーボローディングとは、実はグリコーゲンを溜め込むこと。
グリコーゲンローディングと呼ばれることもある。


というわけで。
最後まで走るためにグリコーゲンをレッツ大量貯蔵。

では、そのためにはどうすればよいか。

それは簡単。

グリコーゲンの供給を増やして、消費を減らせばよい。
つまり、炭水化物を多く摂り、トレーニングは控えめにする。

炭水化物摂取の目安は、こんな感じ。

本番3日前から、ローディング期間に入る。
この期間は炭水化物を多めにし、主食を普段の倍程度まで増やす。
品目は、米、餅、パスタ、パン、うどん、ラーメンなど。

さらに当日、およびレース中もローディングは続ける。
消化されないと燃料にならないので、米、小麦由来の品目はスタート3時間前までに摂る。
それ以降、及びレース中は、飴やバナナがよい。

一般的にフルマラソンでは、要所要所にエイドステーションというものがある。
水やスポーツドリンクが支給されるのだが、つくばマラソンの場合、加えてバナナも振る舞われる。
これは助かる。

走りながら食べるのは大変そうだが、バナナは必須。
必ず取得すること。
水とスポーツドリンクがあったら、こちらもエネルギー重視でスポーツドリンクを選ぶ。

こんなところか。


42kmの長丁場でスタミナ切れを起こさないために、事前の準備とレース中の燃料補給について書いた。
これで、初めてのマラソンも安心して完走できる、と。

それにしても、主食を2倍にしろ、とは・・・
そんなに食べられるかなぁ・・・


<<今日のトレーニング>>

夜間、晴れ、水500ml、BCAA前後各5g、トレランシューズ。

距離: 10.7km
時間: 63min

ヘモクロなサハラランナー

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「迷惑な進化」という本を読んでいたら、サハラマラソンの話が出てきた。

アラン・ゴードンは生まれもっての競争好きだ。
(中略)
マラソン競技の最高峰、サハラマラソンに出場する決心をした。
灼熱のサハラ砂漠を横断する全長240キロのこのレースは、走者の耐久力を極限まで試す。
迷惑な進化(シャロン・モレアム)22pより。

極限まで試されるらしい。
分かってはいたけど、シャロンさんから指摘されると、ますます現実味を帯びてくる。

で、この本は何の本?
マラソンの本?

いやいや。
進化医学についてのものだ。

シンカイガク?

はい。
聞き慣れない言葉だね。

進化医学は、人がナゼ病気になるか、を追求する分野だ。
ナゼを探るのがポイント。

近代の医学では、どうやって病気になるか、病気とは何か、を追求する。
しかし、なぜ、そんな病気が起こるのか、という問いには答えない。

ここを掘り下げてみましょう、ということで近年密かに盛り上がっているのが進化医学だ。


なぜ、病気があるのか?

こんな疑問が出てくるのは、進化論的に不自然に思えるからだ。
現状、あまりにも多くのヒトが病気になっている。
そんな病弱な遺伝子が、生き残って地球の大地を闊歩しているのはなぜだ。

例えば、遺伝的に病気にかかりやすい脆弱な家系と、かかりにくい頑丈な家系があったとする。
千年後に、繁栄していそうなのは、どちらの家系か。
当然、頑丈な家系だ。

貧弱な人100人と、頑丈な人100人では、後者の方が子供を産むまで成長している人数が多い。
そうすると、次の世代では、貧弱な人95人と、頑丈な人105人になったりする。
病気のかかりやすさは遺伝的だとすると、彼等にも親と同じルールが適用される。
つまり、第三世代では、貧弱90人、頑丈110人になる。

こうやって、どんどん世代が進めば、いずれ病気にかかりやすい遺伝子は絶滅するはずだ。
そして、生き残った遺伝子は病気に対する耐性が高いはず。

こういう疑問がそもそもの発端だ。


調べてみると、進化論はどうやら間違ってはいない。
間違っているのは、疑問の方だ。

現在、生き残っている遺伝子は、病弱なものではない。
自然のサバイバル競争に生き残ったものだ。

絶滅した遺伝子は、今我々が罹るような病気には耐性があったかもしれないが、別の理由で滅びている。
我々は、病気に罹る性質と引き換えに、生き延びるための形質を得ていた。

言ってみれば、今死ぬか、30年後に死ぬか、の取り引きをしたようなものだ。

30年後まで生きられれば、子供が産める。
今死ねば、産めない。

どっちにする?
みたいな。

その結果、30年後コースを選んだ遺伝子が残った。


前述のサハラランナー、アランさんはヘモクロマトーシスという病気を患っていた。
身体の中の鉄分をうまく代謝できない病気だ。
対処を間違えれば死に至る。
そして、この病気は遺伝する。

我々にはあまり馴染がない病気だが、西ヨーロッパではよくある。
3人か4人にひとりくらいの割合でヘモクロマトーシス遺伝子を持っていると言われている。
実際に、発症するのは、200人にひとりぐらいではあるのだが。

なぜ、こんな迷惑な遺伝子がそんな高い割合で人々の中に残っているのか。

進化医学では、このような答えができる。
鉄分をうまく代謝できない方が生存できた、からだ。


かつて、ヨーロッパ一円に腺ペストという脅威的な伝染病が吹き荒れた。
人々がばったばったと倒れ、2500万人以上死亡した。

ばったばったと倒れる人々の中、感染しても死なない人たちもいた。
それが、体内の鉄分が普通の人とちょっと違う人たちだ。

腺ペストの病原菌は鉄を与えられると元気になる。
通常のヒトであれば、体内にある鉄を奪われて病原菌の餌食になる。

一方、たまたまヘモクロマトーシス遺伝子を持っていた人は、普通のヒトと鉄の扱いが違う。
病原菌がアクセスできるところに鉄がない。
鉄の代謝に異常があったおかげで、病原菌に燃料を渡さずに済んだのだ。
そして生き残った。


アランさんは、この病気に悩まされたわけだが、そのおかげでこの世に生まれてこれたと言える。

彼は、無事に病気の対処をし、サハラマラソンを完走した。
第21回サハラマラソンのオフィシャルページに名前があった。


いろんな人がいるね。
サハラマラソンに出るような人は。

次回も、そういう飛び出た人が出るのかな。
マドンナとか・・・。


<<今日のトレーニング>>

夜間、晴れ、水500ml、BCAA前後各5g、トレランシューズ。

距離: 8.8km
時間: 63min
 ヨガスートラの続き。

ヨガとは心のはたらきを止滅する、というものであった。

では、心のはたらきとは何か。
止滅も、よく分からないが、心のはたらきも、分かりそうで分からない。

「心」という単語も、「はたらき」という単語も、我々が日常的に使うものだが、ヨガスートラで言っているものは違うものだ。
これはヨガスートラの中で説明されている。

心のはたらきには5種類ありまして、苦しみを伴なうものと伴なわないものがあります。

5種類については、次の文で説明されている。
説明されているのだが、そこに進む前に苦しみについて補足する。

この「苦しみ」という単語も、分かったと思ってしまいがちで、実は深い意味がある。


怒り、というものについて考えてみる。
我々は怒る。
ことあるごとに。

怒ってしまってから、意識的にその怒りを鎮めたりすることはできる。

あー、いかんいかん。
今、ワタシ怒っている。
落ち着け落ち着け。
すーはーすーはー。

こうやって、多少なりとも怒りを鎮めようとする。

意識的に感情は操作できる。
出てきてしまった感情には、後から対処することができるということだ。

怒りを意識的にコントロールすることはできる一方で、怒りが出てくるかどうかを意識的にコントロールすることはできない。
怒るときは自動的に怒ってしまう。

コントロールできないにも関わらず、怒りの出方は人によって違う。
同じ状況でも、怒る人もいれば、怒らない人もいる。
コントロールできないのに、なぜこのような違いが出るのか。

この疑問に対し、このような説明がされている。


我々は、怒るとその感情が潜在意識に何らかの痕跡を残してしまう。
この痕跡は、潜在意識の中にしまわれてしまうので、意識されることはない。
意識されはしないのだが、行動には確実に影響を与える。

それが次に似たような状況に置かれたときだ。
そのような状況では、潜在意識が自動的に過去の痕跡と現状を照らし合わせて、感情を促す。
過去に怒ったときに得られた痕跡と現状が近ければ、今は怒るときだ、と判断する。
そうなると潜在意識から、怒れ、という指令が出る。
そして、怒る。

もし、過去に怒って誰かを傷付けてしまったのであれば、再び人を傷付ける可能性が高い。
犯罪に常習性があるのも、こういう理屈なのではないか。


潜在意識に格納された痕跡は、サンスカーラと呼ばれている。
日本語では、潜在印象と訳される。

怒りの例でも分かるとおり、このサンスカーラというものは、我々の日々の行動に強く影響する重要なものだ。
今日作り上げたサンスカーラが明日の行動を決めるからだ。
明日の行動は、また新たなサンスカーラを生むきっかけとなり、さらに次の日の行動を決める。

サンスカーラは心のはたらきによって生みだされるものだ。
そして、心のはたらきもまた、サンスカーラによって促される。
サンスカーラと心のはたらきがお互いに作用し合って、車輪のようにくるくる回り続けるのだ。

だから、怒りっぽい人はどんどん怒りっぽくなる。
怒るたびに、サンスカーラが生み出される。
その一方で、今までに生み出された怒りのサンスカーラが、新たな怒りを促す。
また怒って、さらにサンスカーラが積み重なる。
そういう循環に入ってしまう。

苦しみを伴なう心のはたらきをは、こういうものだ。

心のはたらきを止滅しよう、という試みは、このような苦しい循環を打ち切りましょう、と言い換えることもできる。


<<今日のトレーニング>>

ジョギングは休み。
来週末の22日は、つくばマラソン。

 ヨガ: 90min

同一視したくなる

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今の時代、好きなことで生きていけるようになってきた。

インターネットがこの主張の土台となっているのは確かだ。
だけど、この主張の根拠は他にもある。
今の時代に特有な側面だ。

今の時代に特有な側面ね。

それは、本当に心の底から毎日好きなことをやっている、と言いきれる人がほぼ皆無である、ということだ。

海外に旅行に行きたいなぁ。

何もかも忘れてぼぉーっとしたいなぁ。

後先考えずに好きなだけ飲みたいなぁ。

一年くらい雑事に振り回されずにひとつのことに集中したいなぁ。

多くの人は、こういう望みを持ちつつ、実現を目指してがんばっている。
そしてもっと多くの人は、憧れながらも諦めている。

がんばっていたり諦めていたりするのだが、ひとつ共通していえる点がある。

気になっているのだ。

自分の望みを叶えることに。
自分の望みを叶えることができそうな人に。
自分の望みを叶えることができた人に。


だから、誰かが好きなことだけをやって生きているように見えれば、気になるのだ。
それが尊敬になるかもしれないし、嫉妬になるかもしれない。

いずれにしても、心のどこかにひっかかる。
ぶら~ん、とひっかかる。

一度ひっかかってしまえば、心の上で延々とぶらんぶらんし続ける。
意識する、しないに関わらず。

その状態で、例えば著書が発刊されると目にとまる。
人が話題にすると耳に入る。

自動的に接点が増える。
結果、その人の何かを買う行動を起こしやすくなる。


なぜ、そういう人が気になってしまうのか。
理由は、これ。

自分を別の人と同一視して擬似的に望みを達成したように感じるから。

望みを達成している人が自分でなくても、自分のように感じられる特性があるのだ。
人間には。


我々は、日常的にこういうことをやっている。

映画やドラマの主人公が目的を達成して気分がよくなったり。
カラオケで好きな歌手の歌を歌って悦に入ったり。
尊敬している人の格好や行動を真似て満足したり。

何らかの接点を持つことで、自分を誰か別の人に重ねて、その気分を味わった気になるのだ。
これは無意識に行うことも多い。


好きなことをやって生きている、ということを発信すると、こういった人間の心理に訴えられる。
好きなことをやって生きたいけど、それが実現できていない人にヒットする。

接点を持てると、自分をその人と同一視できる。
擬似的に、望みが叶った気分になる。


そんなわけで。

みんな好きなことをやりたい。
好きなことをやっている人と接点を持ちたい。
では、自分がその、好きなことをやっている人になればよいではないか。

そういう話だ。


<<今日のトレーニング>>

夜間、小雨、水500ml、BCAA5g、トレランシューズ。

距離: 8.7km
時間: 63min

お金の話をしたくない人

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お金の話に抵抗があるか。
自分の年収とか貯金の額を、人に教えるのに抵抗があるか。

もし、誰にも教えたくない、と思ってしまったのであれば、今の生活環境がよろしくないかもしれない。
今回は、それについて書いてみる。


まず前提として、私もあなたもお金には興味がある。

いやいやいやいや。
オレ、お金には全然興味ないよん、というのであれば、失礼しました。

そんなあなたにはこれからの話は全然役に立たない。
別の有益なことに時間を使ってくださいませ。

興味があるのであれば、引き続き読んでいただければ、と。


で、我々はお金に興味があるわけだけど、それはなぜか。
なぜ、お金に興味を持ってしまうのか。

それは、お金があれば欲しいモノが手に入るからだ。

「モノ」というのは、車やバッグ、冷蔵庫といった形あるものとは限らない。
旅行とか、デートとか、食事とか、そういう体験も、モノの中に入っている。
やりたいことも欲しいモノのうちですよ、ということだ。


お金があれば欲しいモノが手に入る。
それなのに、今は手に入っていない。

そういうモノがあるとしたら、それは、お金が足りていない、ということになる。


今、欲しいモノがありますか?

はい。
マイカーとかマイホームとか。
旅行もしたいなぁ。
できれば、海外でぱぁ~っと。

それはお金で買えますか?

いえす。
車も家も海外旅行もお金さえあれば思いのまま。

お金で買えるのなら、なぜ買わないのですか?

だって、そんなお金ないもん。

というわけだ。

欲しいモノは、ほとんどのものはお金で買える。
買えないモノもあるだろうが、そこまで話を広げるととりとめもなくなる。
紙面もなくなる。
なので、今は買えるモノだけに焦点を絞ることにする。

ここに焦点を絞ると、ひとつ重要な点が見えてくる。

欲しいモノが金額に換算できるようになる。
モノを数値化できる、ということだ。

マイカー、200万。
マイホーム、3000万。
海外旅行、50万。

というように。

この、数値化できる、というのは非常に重要。
なぜなら、今の自分との距離を測ることができるからだ。

距離が分からなければ、欲しいモノがどれだけ遠くにあるか分からない。
近づいているかどうかも分からない。
カーナビも標識もない状況でドライブするようなものだ。

距離が測れれば、あとどれだけで辿りつけるかも分かるし、どれくらいの速度で近づいているかも分かる。
測ってみれば、既に辿りついていた、ということが分かることすらある。


距離を測る基点が、今の収入であり貯金だ。
今の自分の位置、というのが、今の収入と貯金ということ。

欲しいモノとお金との関係をこう捉えると、分かりやすい構図が見えてくる。

今の自分と欲しいモノとの距離は、今の収入・貯金とモノの金額との距離だ。
つまり、こう。

今の自分 : 欲しいモノ = 収入と貯金 : モノの金額

今の自分が欲しいモノに相応わしければ、その距離はゼロになる。
イコール、収入と貯金がモノの金額に相応わしければ、その距離はゼロ。


ここまできて、始めのテーマに戻ってみよう。

収入や貯金を人に話すのに抵抗があるか。


今までの話を踏まえると、抵抗があるのだとしたら今の自分を明かすのに抵抗がある、ということになる。
もっと言えば、今の自分と欲しいモノとの距離を明らかにすることに抵抗がある、だ。

そして、抵抗があるのであれば、生活環境がよろしくないと思うのも説明できる。
抵抗があるのは何も自分だけの問題ではない。
環境の問題が大きい。

欲しいモノへの距離を他人に明かしたくない、と思ってしまう環境にいる、ということだ。
よく時間を共にする人も、お金の話を避けるのではないだろうか。
欲しいモノへの距離を教えたくない人たちに囲まれているのではないだろうか。


こういう人たちばかりの環境にいると、人を助けることが難しくなる。
助けたくても助けられないのだ。

電話がかかってきたとする。

ワタシ、ここに行きたい!

よし、分かった。
今どこにいる?

それはちょっと言えないの。

・・・

どこにいるか分からなければ、助けるのは困難だ。
行きたいところがあるのに、今の位置を伝えない、というのはそういうことだ。

こういうことを考えた上で、敢えて現在地を教えないうのであれば話は分かる。
生きていれば、助けに頼らず自分で何とかしたい局面も出てくる。
それはそれでよい。

環境の影響が恐しいのは、そういう考えの遥か手前で振る舞いを決めてしまうからだ。
ただ何となく、という理由で助けにくい状況を生み出す。


あの人もお金のこと教えない、この人も教えない。
教えないのがフツー。
だから私も教えない。

言い換えると、こうだ。

あの人もどこにいるか分からない、この人も分からない。
誰もどこにいるか分からないのがフツー。
だから私も分からないようにする。


実際には、現在地と目的地を公表したところで、すぐに助けてもらえることはない。

自分が、どうしてお金の話に抵抗を持ってしまうのか。
どうしてそういう行動を取ってしまうのか。

一度、この理由を考えてみてはどうか、という話だ。


<<今日のトレーニング>>

夜間、雨、水500ml、BCAA前後各5g、トレランシューズ。

距離: 7.7km
時間: 58min

ヒトは走って進化した

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かつて、我々の祖先が二本足で活動をはじめた。
このときを境に、ヒトとチンパンジーが分化した。

二本足で活動をするようになったことが、ヒトとチンパンジーに決定的な差を与えた、ということだ。
この差が、脳の発達に大きな影響を与える。

ヒトとチンパンジーでは、脳の容量がまるで違う。
グラスと大ジョッキと同じくらいか、それ以上。


では、なぜ、二足歩行がそこまでの違いを生みだしたのか。

道具を使える。
火をおこせる。
歩きながら作業できる。
だから脳が発達した。

これが、今までの通説だった。

だったのだが。

最近、別の説が浮上してきた。
二足歩行でヒトが進歩したのは、長距離を走れるようになったからだ、という説。
ヒトの脳が発達したのは、何も手を自由に使えるようになったからではない。
骨格的に、長距離走に有利なつくりになったからだ。
という趣旨だ。

ヒトが二足になったころ。
脳が急激に巨大化したころ。
長距離を走りはじめたころ。

これらの時期は一致する。
化石の研究から得られた成果だ。

長距離を走る能力が、脳の発達にどうつながったか、はまだ明かではない部分はある。
それでも、長距離走能力が脳の発達を促した、という説は有力になっている。


それから何百万年も経った現在。
ヒトの長距離走能力は、未だに保持されている。

今の世の中でも、42kmを走れてしまうヒトが多い。
よく考えてみれば、こんな能力は生きていくためには、まるで必要ない。
それにも関わらず、だ。
長時間イスに座っていたら具合悪くなるクセに、走るのならイケる、ときたもんだ。

こんな芸当ができる動物はヒト以外にいない。

短距離であれば、馬やグレイハウンドなんかの四足の動物には及ぶべくもない。
馬より速く走れるヒトというのは、聞いたことがない。

だが、長距離であれば、ヒトに勝てる動物はいない。
42km走る動物というのは、聞いたことがない。
230kmというと、もっと聞いたことがない。


日本には、走ることを趣味とする人が2000万人以上いるとされている。
必要もないのに、マラソンに参加したがる人も多い。

ヒトの遺伝子が、走れ、と囁いているのかもしれない。


Everyone says humans are bad runners.
There's no question we're appalling sprinters, but we're quite good at endurance running.
Daniel Lieberman, Harvard University

ヒトは走るのが苦手だとされている。
確かに、我々は優れた短距離走者とはいえない。
しかしながら、非常に優れた長距離走者であるのだ。
ダニエル・リバーマン、ハーバード大学


<<今日のトレーニング>>

夜間、晴れ、水500ml、BCAA5g、マサイ。

距離: 7.5km
時間: 60min

思っているだけかも

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好きなことをやる際に注意したいこと。

本当に好きなことをやること。

これ重要。


油断すると、好きだと思っていること、にハマりやすい。
好きだと思っていること、と、好きなこと、は違う。
似ているようで全然違う。

好きだと思っていることは、外部から与えられたモノだ。
自分ではない、誰かが好きなモノ。
あるいは、誰かが自分に好きだと思い込ませたいモノ。

そういうモノだ。


例えば、お金。

お金が好き、と公言する人はそんなにいないとしても、お金があればいいなぁ、と思う人は多い。
そういう人が多いにも関わらず、何かの弾みで大金を手にした人が幸せになることは極めて稀。
宝くじに当たった人が、1年以内に全額なくなった上に不幸になったり借金地獄に陥ったりする。

お金とは自分にとって何なのか。
自分は本当にお金が好きなのか。
お金に価値を見出しているのか。
もしかしたら、お金ではない何か別のモノなのだけど、それをお金だと思い込んでいないか。

これを踏まえた上で、やっぱりお金が好き、というのであれば、それはよい。
その方向を突き進めばよいと思う。

だけど、よく考えたら、好きなモノはお金ではなかった、という場合は往々にしてある。
実は、お金で買える何かが欲しかった、とか。
この場合、好きなモノは、その何か、だ。


好きなことをやっていれば、それだけで生計が立てられる時代になってきた、とは言った。
だけど、好きなこと、好きなもの、をはっきりさせることは結構難しい。

今の世の中で、それが難しくなっている理由はある。
周りからのインプットが多すぎるからだ。

テレビ、ネット、電車の中吊り広告、人との会話。

そういった情報に日々晒され続けていると、自分の境界が見えにくくなってくる。
どれが自分の意見で、どれが他人の意見か分からなくなってくる。
意見と同じように、好きなモノまで、自分のモノと他人のモノの区別ができなくなってくる。

これが、好きだと思っているモノ、と、好きなモノ、の違いだ。


好きなことだけで食べていける時代にはなってきたが、肝心の好きなことがよく分からない。
好きだと思っているに過ぎないケースが多くて。

まずは、そこから探求していくのが第一歩かな。


<<今日のトレーニング>>

夜間、 晴れ、水500ml、BCAA前後各5g、トレランシューズ。

距離: 7.7km
時間: 62min

好きなことをやれ

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自分の好きなことをやれ。

というのは、しばしば聞く言葉だ。

この言葉自体は昔からあったようだが、今の時代では別の意味を帯びてきている。
好きなことをやるだけで生計が立てられるようになってきた、という。

しかも、やりようによっては生計が立つだけではなく、大手のサラリーマンより裕福にもなれる。
あわよくば億万長者になれたりもする。


今までは、お金と好きなことはトレードオフされる、という発想がメジャーだった。
生活のためにやりたいことは我慢しろ、と言われたら、なんとなく納得してしまう。

それに対するウラの部分が、好きなことをやっていればお金なくても幸せでしょ、という発想。
お金のために好きなことを抑えておくのが、いいことなのか、と。

これが、お金vsやりたいこと、の構図。
サラリーマンの永遠の課題だ。

それが、両方手に入る、としたらどうか。
しかも、何か特殊な才能を持った人だけでなく、割とフツーの人でも。


なぜ、昔は難しかったのに、今の時代なら両方を手にすることができるのか。

それがインターネットの威力だ。
少しシミュレーションしてみよう。

コダワリの服屋を作ったとする。

店舗を構えて近所に宣伝し、客を集める。
うまく回転するようになって、毎日100人来店するようになった。
うち5人は何かしら買っていってくれる。

これが、リアル店舗で回した場合。
次にインターネットを使った場合。

サイトを作ってネット上で宣伝し、アクセスを集める。
うまく回転するようになって、毎日10000人がアクセスするようになった。
うち50人は何かしら買っていってくれる。

ネットではリーチできるお客さんの数が圧倒的に多い。
それが売り上げに反映される。
しかも、店舗代もかからず、接客スタッフも不要。

もちろん、ネット特有の問題はある。
ユーザーには、オーナーは信用できるのか、品質は大丈夫なのか、といった不安はつきまとう。
この点を考慮して、ネットの購買率はリアルの場合より1/10にしておいた。
それでも、アクセス数がリアルの場合とは比べものにならないので、この点を補ってあまりある。


そして、圧倒的に多い人にリーチできるようになると、単に売り上げが変わるだけでなく、別の展望も見えてくる。
リアルでは全く成り立たないようなマニアックな店でも成立する、ということ。

例えば、10000人に一人しか買ってくれないような商品を扱う場合。
リアルでやろうとすると、毎日の来客が100人では、年に3個しか売れない。
これでは成立しない。

その点、ネットで毎日10000人アクセスしてくれるとどうか。
値段次第ではうまくいく。


好きなことをやっているだけで、生計が立てられるようになってきた、ということはこういうことだ。
ネットをうまく活用すれば、好きなことだけで生きていける、と。


<<今日のトレーニング>>

夜間、晴れ、水500ml、BCAA前後各5g、トレランシューズ。

距離: 9.1km
時間: 63min

金魚鉢の金魚と枠の中の自分

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もと勤めていた会社が引っ越しすることになった。
そこで、引っ越し記念ディナーなるものが催されることになった。
退職して既に3年も経っているにも関わらず、私にも声がかかった。
そんなわけで、3年ぶりに会社員だらけ、という場に浸ってきた。

独立して3年経った自分から見て、もとの職場の人たちはどんな風に見えたか。
自分でも、予想外に得るものがあって、よい体験だった。


気になったのは、自分たちが会社に属している意味を考えている人がほとんどいない、という点。

だから、話題に上るのは、社内で起きている目の前の問題ばかり。
このプロジェクトは、ここがイケてない。
このチームでは、この人がキーだ。

プロジェクトやチームに目はいくけど、それを見ている「目」の方に目がいかない。
つまり、どうなれば、自分が満足か、という視点がない。
会社を見ている自分の視点というものが、ない。

この視点がないから、会社がどうなるか、という視点もない。
自分にとっての会社の意味が不明なままであり、会社の業界や社会に対しての意味も不明。


金魚鉢の中の出来事は気にするが、水のことは気にせず、金魚鉢がどうなるかも気にしない、といったイメージが浮かんできた。
水も金魚鉢も、確固とした立場に置かされていれば、別に気にしなくてもよいかもしれない。
鉢の中の出来事を扱っていても問題はない。

ただし、もし実は水が減ってきているとしたらどうか。
金魚鉢が崖っ縁に置かれていたとしたらどうか。
中の出来事どころではないはずだ。

金魚からしてみれば、水や鉢をどうこうすることはできないかもしれないが、まずはそういう状況を認識するかどうかが重要だ。


こういうことを言えるのも、自分が金魚鉢から出たからこそ、だ。
中にいたときは、そんな発想はなかったし、辞めなければ今もそういう発想は出てこなかっただろう。

そして、この構図は、どんな状況においても通じるところがある。
つまり、会社を辞めた今の自分にも、何か気付いていない枠の中にいる可能性は十分にある。
枠の中の出来事にばかりに囚われていて、枠自体が危うくなっていることに気付かないかもしれない。

子供のころは、家庭という枠内に囚われていて、一人暮しを始めてから家庭の意味を捉えられた。
学生のころは、学校という枠内に囚われていて、卒業して初めて学校の意味を捉えられた。
社員のころは、会社という枠内に囚われていて、独立して初めて会社の意味を捉えられた。

今までは、枠から出て始めて枠の意味を認識したが、いい加減、次のステップに行ってもよさそうだ。
枠の中から枠を認識し、その意味を模索するというステップだ。

ヨガスートラやらハイデガーやら、という一連の思索は、そういうことを目指しているとも言える。
我々は何の枠の中にいるのか。
その枠は自分にとってどういう意味があるのか。

枠の中にいながらにして、その意味を分かっていれば、随分と違ってくるだろう。


<<今日のトレーニング>>

お休み。

英語と話し方と歴史が一度に

| コメント(2)
アメリカの大統領って演説うまいよね。
過去の演説も有名なの多いし、日本でも英語の教材になってたりするし。

そうだね。
ああいう演説って、大統領本人ではなく専門のスピーチライターが書いてるんだって。
いってみれば、アメリカ最高峰の頭脳たち。
うまくて当然といえば当然だよな。

なるほどね。
だから、あんなに多くの人が感動したりするわけだ。

感動したりするね。
話し方がうまいというか、人の心理に訴えるように意図的に作り込まれているし。

そうなの?

そうそう。
例えばさ、「Yes we can」とか「We observe today」とか言うでしょ。
私、ではなく、私たち、という表現を使っている。
この表現のおかげで、国民に当事者意識が芽生えるわけだ。


というわけで。

大統領のスピーチはなにかと勉強になるよ、と。

スピーチは人の心に訴える話し方が考え抜かれている。
つまり、人に話を聞いてもらえる話し方の粋が集っている。

どんなにナイスなことを言っていても、心に訴えられなければ忘れられてしまう。
誰かに何か本当に伝えたいことがあれば、聞いてもらえる話し方が必要。
ここは押さえておきたいところだ。


幸い日本は、英語教材には困らない環境に恵まれている。
大統領演説は格好の素材。
簡単に手に入る。

これを活用しない手はないぞ、と。
英語の勉強にもなるし、話し方の勉強にもなる。
ついでに、アメリカ史にも強くなれたりするかもしれない。

オススメ。


<<今日のトレーニング>>

夜間、晴れ、水500ml、BCAA前後各5g、マサイ。

距離: 9.1km
時間: 61min

どれくらい大切か

| コメント(4)
自分のやりたいことを探す時間はどれくらい大切だろうか。

他人の指示に従うことより大切だろうか。
特に見たいわけでもないテレビより大切だろうか。
翌日には何も覚えていない飲み会より大切だろうか。
気に入らない人の悪口より大切だろうか。

自分のやりたいことを探す時間はどれくらい大切だろうか。


<<今日のトレーニング>>

風が強くて手が冷えた。
そろそろグローブが必要な季節かも。

夜間、晴れ、水500ml、BCAA前後各5g、マサイ。

距離: 9.5km
時間: 65min
vision.jpg りっぷる(カワイヒデアキ)@浜松。2010年サハラマラソン完走を目指してトレーニング中。

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